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2012年9月16日 (日)

731部隊による細菌戦 ②

まず、ノモンハン事件のときに731部隊がハルハ河支流、ホルステン河上流でチフス菌を散布したのに続いて、日本軍は1940年~42年にかけて中国十数都市で細菌を散布した。1940年秋には浙江省の諸都市にペスト菌が散布された。10月4日は衢州(衢県)に日本軍機がペスト感染ノミを投下してペスト流行させたが、1940/12/07に流行は一時終息するものの、2次3次感染により被害は拡大し、防疫のため医師・ポリッツアーが派遣された。ようやく 1941年12月にペスト流行は終息するが、衢州県域と周辺農村の死者は1500人を数えた(医師・邱明軒の推計)。続いて1940/10/27、寧波に日本軍機がペスト感染ノミを小麦の粒とともに投下し、ペスト流行は12月2日まで続いたが、1ヵ月余の間に109人が死亡した。1940/11/27~11/28は、金華に日本軍機がペスト生菌を投下した。この時の生菌であるため地上に落下するまでにペスト菌が死滅し、ペストは流行しなかった。このように寧波と衢州ではペスト感染ノミを、金華では生菌を投下しているが、これは両者の効果を比較するためであっただろう。1年間のブランク後の常徳の投下(1941/11/04)では、周辺の農村の数次感染を含めると、現在その氏名・住所がわかる死者は7000人を超えている。1942年8月の細菌攻撃は、浙贛作戦の際、打通後日本軍が撤退するときに地上でPXなどを散布したもので、広信、広豊、玉山はその典型だ。以上の細菌戦の実例は、金子順一論文の表あった3番目~6番目のケースに示されている。だが、最初の2つのケース、1940/06/04、農安でPX:5g 散布され、1次、2次計615人の死者が出たこと、続いて6月4日~7日まで農安、大賷に到る各地でPX :計 10gが散布され、1次、2次計2436人の死者が出たことは、これは、今回初めて判明。これまでは1940年の農安ペストは自然発生と考えられており、それが新京に伝播して新京ペスト大流行になったと捉えられてきたからだ。そうなると、ペスト班長・高橋正彦の農安・新京ペスト調査論文も新たな意味をもってくることになる。





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