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2012年9月

2012年9月30日 (日)

通常運転している原発周辺では

ドイツの原発(16基)周辺に住んでいる5歳以下の子供1592人と対照4735人を対象に、1980~2003年の間に見られたがんについて比較した症例対象研究がある。それによると、原発から5Km以内に住む子どもで、全てのがんの発症リスク(オッズ比1.47)が観察され、特に白血病の発症は、約2.2倍(オッズ比2.19)と高リスクを示した。スイスの昆虫学者ヘッセ・ホネガーは、スイスとドイツの原発、およびフランスのラ・アーグ再処理工場周辺で、20年にわたって採取した1万6000匹以上の昆虫を調べたところ、全先天異常だ30%、形態異常を示したものが22%に観察された。この数値は汚染されていないビオトープで見られる1~3%よりはるかに多かった。このデータは、原発や再処理工場からコンスタントに排出されているトリチウム、炭素14またはヨウ素131が直接影響したものと考えられた。さらにチェルノブイリや核実験の降下物のセシウム137など、長半減期人工核種が食物連鎖に入り込んだ影響。今回の研究は、低レベル放射線とくにエアロゾルを介して運ばれ拡がったホットαおよびβ粒子が生物圏、中でも昆虫に大きな負荷を与えているとの確かな証拠を支持するものだ、としている。



2012年9月29日 (土)

「劣化ウラン」による内部被曝

米国軍は1991年の第一次湾岸戦争で大量に使ったのを皮切りに、旧ユーゴスラビア、アフガニスタン、イラクに対する第二次湾岸戦争と「劣化ウラン弾」を使い続けてきた。「劣化ウラン」というのは、ウラン238で、「燃えないウラン」ともいい、原爆や原子力発電に使うウラン235を濃縮する過程で大量に生まれる「核のゴミ」だ。米国は1940年代から、これを兵器として使う研究を重ねてきた。「劣化ウラン」は放射性物質であると同時に、重金属に特有の化学毒性をもっている。「劣化ウラン弾」の攻撃を受けたイラクや旧ユーゴスラビアでは、白血病が多発し、先天障害をもった子どもが多く生まれている。また、これらの地域から帰還した米国兵や従軍看護婦がさまざまな身体の不調を訴え、彼らから先天障害の子供が生まれている。アフガニスタンでは、アメリカ・カナダの良心的な医学者の献身的な調査・研究によって、甚大な被害の一端が明らかになってきた。米国政府と日本政府は「劣化ウラン弾」の放射線<α線>は紙一枚通過させないから安全だという宣伝を繰り返してきた。しかしその主張は、「劣化ウラン」の微粒子が身体の中に入り込み周囲の細胞にα線を照射する内部被曝の事実をまったく無視したものだ。「劣化ウラン」の影響に関しては、ICRP(国際放射線防護委員会)やWHOが大規模な実態調査を行うべき重要な課題だが、彼らが行動を起こす気配はない。WHOは原発推進を目的とするIAEAの同意なしに、被害調査をしたり結果を公表することをしないとの協定を1959年に締結したからである。





2012年9月28日 (金)

ハンフォード原子力施設労働者の健康障害

米国疫学界の第一人者・マンクーゾは、米国の「原子力委員会」(AEC即ちNRCとERDAの前身)の委託を受け、1944年~1972年間迄の29年間、ハンフォード原子力兵器製造施設で働いた労働者24939人の調査を行った。彼らのうち死亡者は3520人、このうち白血病を含む癌による死亡670人だった。彼らが生前、職場で浴びた外部放射線量は平均1.38rad(1rad=100Gy)。それに対して癌以外の原因による労働者の平均線量は0.99radだった。癌によって亡くなった労働者の方が、生前40%多く放射線を浴びていたことになる。この調査結果をもとに、マンクーゾは1977年に発表したレポートで、つぎのように結論づけた。「人間の命を大切にするというなら、原子力発電所内部で働く作業従事者の被曝線量は年間0.1rem(1mSv)に抑えるべきである」。マンクーゾの方法論は、「ソシャル・セキュリティー・ナンバー(国民一人一人に番号をふり、生年月日、出生地、職種、家族構成、収入、死亡年月日、死亡地などがすべて記録される)」を駆使した精度の高いものだ。このレポートを発表した途端に、米国政府エネルギー省は調査費の支給を打ち切ってしまい、調査データをマンクーゾの手から捥ぎ取ってしまい、彼に「ぺルソナ・ノン・グラーダ<危険人物>」の烙印を押した。





2012年9月27日 (木)

原爆被爆者の内部被曝

原爆投下から67年。広島・長崎および全国各地に、沢山の入市被曝者がいて、今なお、原爆放射線による晩発障害で苦しんでいる。何故、内部被曝は軽視されてきたのか。マンハッタン計画の副責任者トーマス・ファーレルは、広島・長崎への現場投下の影響は「空中高く爆発した」ため放射能の影響は軽視出来、1954年のビキニ水爆実験の場合「地上近く爆発した場合」に限って広い範囲が放射能汚染される、とした。つまり、アメリカ政府は、広島・長崎に投下された日から1954年まで「放射性降下物はなかった」と言ってきた。しかし、ビキニの降下物による被害が明らかになってからは、さすがに強弁できなくなり、「水爆の時代に初めて出会うリスク」ということを広く印象づけようとしたのだ。「残留放射線」という言葉がある。「残留放射線を呼吸や水や食べ物と一緒に体内に取り込んだために、直撃を受けたときの被爆、いわゆる外部被爆とは別に、なを上回る内部被曝を受ける」というのが被爆者たちの主張だ。では、残留放射線の被爆はは何か。一つは、原爆が最初に炸裂したときに出る初期放射線、中性子によって誘導された放射性物質だ。爆心地を中心に、それが大量に作られた。もう一つは、きのこ雲に含まれ、非常に広範囲に降った放射性の雨、すす、あるいは目に見えない微粒子などの放射性降下物だった。内部被曝の場合、γ線および中性子線以外にα線およびβ線が影響し、外部被曝に比べ至近距離からの被曝となるため人体への影響が大きい。




2012年9月26日 (水)

マーシャル諸島住民の内部被曝

水爆実験による被害の中で、マーシャル諸島の住民の被曝は深刻。実験から現在60年以上になる。いまだに本来住んでいたところに戻れない人が多い。さまざまな急性障害や晩発性障害を背負い、生活や文化のすべてを根こそぎ奪われてしまったのだ。被曝者調査を実施した竹峰誠一郎(早稲田大学)は「その人たちの人権や人間の尊厳の回復につながる」研究が必要だと訴えている。この地域の住民の中にも、内部被曝の結果と考えられる先天障害がある。高知県のグループはこの海域に住んでいる人たちの聞き取りもしたが、「以前にはなかった流産が多く、死産もあり、いろいろな障害を持った子どもが生まれるようになった」という証言がある。アメリカは、マーシャル諸島でいろいろ調査をやり、アメリカの原子力委員会(1974年廃止、エネルギー省に吸収)が、データを全部持っていった。広島、長崎の原爆調査を行ったABCC(原爆傷害調査委員会)同様、徹底的にサンプルを集め調査するが、治療は一切しなかった。このことがミクロネシア議会で議論され、住民たちに対する補償が具体化されたが、アメリカが被曝した島として認めているのは、ロンゲラップとウトリック、ビキニ、エニウェトクの4島のみ。しかも補償されるのはその中のごく限られた人だけだ。世界各地の社会的弱者のために献身してきたカナダの研究者ロザリー・バーテルはマーシャル、ロンゲラップ島の被曝の実態が、実際には被曝した「非被曝群」と比較することによって、過小評価されていることに警鐘を鳴らした。このやり方は、広島、長崎の被爆者に対するABCC・放射線影響研究所のやり方と共通の手口だ。





2012年9月25日 (火)

1000隻を超えるマグロ漁船員の内部被曝

今回の東電福島原発大惨事の後、プルトニウム239(物理的半減期約2万4000年)が検出されたとき、水爆実験時に降り積もったものだと言説がなされた。しかし、その後、半減期約14年と短いプルトニウム241が同時に検出されたため、福島原発事故現場から出たものだと結論づけられた。第五福竜丸の乗組員の被曝については、非常に詳細な臨床記録および剖検記録がある。大石又七は、「広島、長崎の被爆者の場合は、『被爆者手帳』があるし、それから相談窓口もある。だけど、ビキニ海域で被曝したわれわれには、相談する窓口すらない」と述べている。第五福竜丸が被曝したころ、1000隻を超える漁船が被災したと推定される。これについて丹念な調査をしたのは、高知県ビキニ水爆実験被災調査団で、熱心な高校生も加わった。高校生たちが調べたなかで例として挙げているのが第二幸成丸だ。この船は、1954年2月に出港、第五福竜丸より前にビキニ海域に行き、4月まで長期間操業した。少し離れていたので実験にまったく気づかなかった。しかし、「死の灰」を受けた。この船はその後5月2日、ティモール海域に出漁。5月5日に行われた実験の「死の灰」の影響も受けた。何回も実験海域に漁業に出た結果、22人の乗組員中13人が亡くなっている。また、新生丸は、高知県宿毛市の内外ノ浦から、最初のビキニ事件のときに操業に出ていて、かなり大量の灰を浴びた。「マストの横にせり出している棒にかなり積もった」という証言がある。この船は小さな船で、乗組員7人中6人がすでに亡くなっている。
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2012年9月24日 (月)

ビキニ事件

久保山愛吉(静岡県焼津のマグロ漁船第五福竜丸無線長)は、1954/03/01、ビキニの海で西から昇る太陽を見た。そして「死の灰」を身体の奥深くまで吸い込んだ彼は、半年後帰らぬ人となった。それはアメリカが南太平洋の海で行った水爆実験の結果だった。大量にまき散らされた放射性物質の小さな粒子が、彼のセル・DNAを傷つけたのだ。「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」。東京都江東区夢の島公園、第五福竜丸展示館の庭にそっと置かれた碑には、彼の言葉が刻まれている。乗船員23人の7割ががんを発症した。第五福竜丸に乗るとき19才だった大石又七は、自身もがんを背負い、初めて授かった子は障害を有し死産だった。その後普通に生まれた長女へのいわれない差別を乗り越え、各地で子供たちに語りかけている。日本列島全体が「死の灰」に覆われた今だからこそ、ビキニ事件に学習せよと。




2012年9月23日 (日)

実は日本の危機管理項目の一つに富士山大噴火が

富士山は見事な円錐形をしているが、溶岩や火山灰が10万年もかけて積もってできた巨大な活火山。富士山は江戸時代に大噴火をした。300年ほど前の1707年、大の火山灰が富士山の東に降り積もった。横浜で10cm、江戸で5cmの厚さになった。火山灰は2週間以上も降り続き、昼間でもうす暗くなった。いま富士山が噴火したら、江戸時代とは比べものにならない大被害が出る。富士山の風下にあたる東側には、東京や横浜など政治経済の中心地がある。ハイテクの高度情報都市は、火山灰に最も弱い。細かい粒子の火山灰がコンピュータに入り込んでダウンさせてしまうのである。また、何十日も舞い上がる火山灰は、通信・運輸を含む都市機能に大混乱をもたらす。目の痛みや気管支喘息を起こす人も続出し、医療費が一気に増大する恐れもある。火山灰は航空機にとっても大敵だ。上空高く舞い上がった火山灰は、偏西風に乗ってはるか東へ飛来する。羽田空港はもとより、成田空港までもが使用不能となるだろう。一方、富士山の近傍では、噴出物による直接の被害が予想される。富士山のすぐ南には、東海道新幹線と東名高速道路が走っている。溶岩流や土石流が、静岡県側に流れ出せば、これらが、寸断される恐れがある。首都圏を結ぶ大動脈が何日も止まれば、経済的にも甚大なる影響が出る。かって火山の噴火が、国際情勢に影響を与えたことがある。1991年のフィリピン・ピナトゥボ火山の大噴火では、風下にあった米軍のクラーク空軍基地が、火山灰の被害で使えなくなった。これを契機に、米軍はフィリピン全土から撤退し、極東の軍事地図が書き換えられた。富士山の噴火によって、厚木基地をはじめとする在日米軍の戦略が大きく変わる可能性もある。もし江戸時代のような噴火をすれば2兆5000億円の被害が発生する。と内閣府が試算したことがあるが、これでも過小評価ではないかと火山学者は考えている。富士山の噴火は首都圏だけでなく、関東一円に影響が出る。その噴火予知と対策は、実は日本の危機管理項目の一つなのである。

2012年9月22日 (土)

2012/07/14 中村 哲さんの報告 ⑤

PMSに残った唯一の診療所がダラエヌールである。ダラエビーチ(クナール州)、ワマ(ヌーリスタン州)は戦場になって久しく、再開の目途無し。2012年、同渓谷は「ダラエヌール郡」として独立した行政区画となった。旧シェイワ郡の人口が爆発的に増え、管理が行き届かなくなったためである。このため、診療所から小病院への格上げが問題になったが、行政手続きが煩瑣な割に実が伴わないと判断、時期をうかがっている。ペシャワールの旧PMS病院は、唯一残されたハンセン病治療施設として重きをなしていた。だが、戦乱で同病院を失った現在、同病の治療は大きな課題である。2012年3月、ペシャワール側から照会があり、未治療の患者が送られてきた。アフガン東部、特に、クナール州はハンセン病最多発地帯の一つである。しかし、無政府状態で本格的な動きができず、とりあえず、ダラエヌール診療所の一角を使用するよう検討された。治療薬はナンガラハルサ保健省の倉庫に眠っている状態だったが、行政側に訴え、その出方を見ている。アフガン側では、結核と統合した対策が表向き掲げられているが、診断・治療できる医療関係者が皆無で、事実上放置されている。カーブルとバーミヤンで長く活動していたドイツ系医療団体は既になく、期待がPMSに集中した。州保健省は興味を示し、その主催で指導的な医師層を対象に私(中村 哲)が講義を行ったものの、実態は殆ど知られていない。しかし、この政治情勢下で「ハンセン病どころでない」というのも本当である。PMSとて下手に動けば現地活動全局に影響が出る。しばらくダラエヌール診療所で小規模な診療を始めて静観し、患者数が無視できない状態になれば、再度行政側に打診、何らかの方策を立てる。



2012年9月20日 (木)

2012/06/15 衆議院外務委員会の質疑 ②

さらに服部議員が「学者ということじゃなくて、これはもともと国が起こした戦争、国の機関としてやったことですから、ここはやはり外務省としてきちっと受け止めてやっていただきたいということを申し上げておきたいと思います。細菌戦遺族の皆さんの希望は、日本政府の責任で旧日本軍731部隊等の調査機関を設けて事実調査をまず行ってほしいということをおっしゃっているわけです。ですから、この金子論文が発見されたということを一つの大きな契機として、731部隊の細菌戦の調査研究、真相究明に着手するという決意をぜひおっしゃっていただけませんか」と追及すると、玄葉大臣は「細菌戦に係る事実関係などは、時間的経過などを踏まえれば、政府が例えばさらなる調査を行って事実関係として断定できるかどうなのかといえば、やはりこれはかなり難しいのではないかという風に思っています」と否定的な回答だった。(2012/06/15、「衆議院外務委員会速記録(議事速報)」2ページから)。このように、玄葉大臣はこれまでの731・細菌戦の研究の蓄積を知らずに、あるいは無視して、金子論文は新たな事実を示したかどうかには曖昧な返答をし、今後の歴史家の研究、調査の進展に委ねたいとの答弁で逃げている。今後も731・細菌戦は史料が政府内にないから事実関係が分からないとする日本政府に対し、金子論文は関東軍防疫給水部に所属した医師が書いた文書で、日本軍の軍医学校刊行の『陸軍軍医学校防疫研究報告』に収録された文書であることを強調して、731部隊・細菌戦の活動の事実を認定させなければならない。同時並行で、731部隊・細菌戦に関する国による調査機関の設置を求めていかなければならないのも自明のことである。





2012年9月19日 (水)

2012/06/15 衆議院外務委員会の質疑 ①

2012/06/15には、衆議院外務委員会で社民党の服部良一議員が金子論文を示しながら、これまで細菌戦については史料がないので事実関係が分からないとしてきた日本政府は、金子論文についてどう考えるのかと質問し、政府の責任で731部隊関連の調査機関を設けるよう要求した。服部議員の質問内容:「……731部隊と日本軍による細菌戦の問題なんですけれども、2003年10月に、『外務省、防衛庁等の文書において、関東軍防疫給水部等が細菌戦を行ったことを示す資料は、現時点まで確認されていない。』としつつ、『新たな事実が判明する場合には、歴史の事実として厳粛に受け止めていきたい』こう政府答弁をされておるんですね。それで、今日、ちょっと資料をお配りいたしましたけれども、その新たな事実が国立国会図書館の関西館に所蔵されているということが2011年10月に日本の民間研究者によって発掘されました。731部隊所属の金子順一軍医少佐による論文集であります。この中で、昭和15年から17年(1940~42)まで、6回にわたる細菌作戦が実施された場所、効果等がまとめられているわけです。これは米軍が行った細菌戦に関する事実調査の結果とも符合する、既存の信頼できる資料等とも符合しているわけですけれども、大臣、この金子論文の新たな発見を踏まえて、日本政府として中国における細菌戦の事実の問題についてどういう見解をお持ちか、お聞きたいと思います」これに対し玄葉外務大臣は、「……いわゆる731部隊の活動の詳細についてはやはり政府内部に資料が見当たらないというのが今の実態でございます。今の質問は、この金子論文が新たな事実として出たのではないか、こういうお話なんだろうというふうに思いますけれども、今回、少なくとも、見つかった資料も含めて、歴史の学者の方々が今後どういう研究をし、その研究の深まりがどうなっていくのか、そういったことを踏まえながら、まさに先ほどおっしゃっていただいたように、新たな事実がこのことで判明するというのかどうか、そういったことを判断していきたいというふうに思っております」と答えている。



2012年9月18日 (火)

農安、新京のペスト流行について ②

新京で78体、農安で48体のペスト死亡者を解剖し、ペスト菌検索を行い、死体から各臓器を採りプレパラートにして平房に持ち帰った。高橋正彦がそれらの資料を分析した。高橋が農安で、下水溝のノミ、ネズミの有菌性を地域ごとに詳しく調べ、感染経路を探求したのは、新京から農安へ大規模な防疫隊が送られる以前であったことは言うまでもない。防疫活動がされる前に、地上散布したPX:5gがどのようにして感染を引き起こしていくかを調査しなければ意味がないからである。なお1990年秋に発見された米国ダグウェイ文書の数百ページから成る『Q報告』は、この農安・新京ペストの報告書を詳しくしたものであり、臓器ごとのプレパラートに基づくカラーの模型図が付いているもので、戦後、高橋正彦がその英文報告書の作成に協力していることが記されている。1940年秋の浙江省への細菌攻撃のあと1年間のブランクがあったのは、その間に新京・農安の調査を通してペストの発生と伝播の仕組みを知り、獲得した多数のペスト菌株を培養し、ペスト菌感染による臓器の分析を行い、その後確信をもって常徳にPXを投下したものと考えられる。また、農安から新京へのペスト伝播については、新京に向かって徐々に伝播するのではなく、ペスト患者が新京駅近くの「三角地帯」にある犬猫病院で突然患者が現れたので、「農安某富豪ガ同病院(田島病院)ニ入院セシメタル一飼犬ニ依リ流行地病蚤ヲ搬入セルモノニアラズヤト疑ヒ余ハ本発患者ガイヌノミニ依ルペスト感染ナラズト着目シ」た平沢正欣の論文「「イヌノミ」ノ「ペスト」媒介能力に就テノ実験的研究」(これも『陸軍軍医学校防疫研究報告』第1部の数編からなる医学博士号取得を目指して1945年に提出された論文集)が検討に値する論文として浮上してくる。今後の課題である。農安と農安大賚のペスト菌散布については、2012年7月下旬から「NPO法人 731部隊細菌戦資料センター」が現地調査を行うので、新事実が判明することが期待されている。



2012年9月17日 (月)

農安、新京のペスト流行について ①

高橋正彦論文とは高橋が『陸軍軍医学校防疫研究報告』第2部の論文を合本し、1949年慶応大学に医学博士号取得のために提出したものであり、2000年9月慶応大学医学部倉庫で発見された(『朝日新聞』2000/09/09夕刊)そのうちで特に金子論文と関連するのは、高橋「昭和15年農安及新京ニ発生セルペスト流行ニ就テ」第1編~第5編である。1940年6月、PXが農安の地上で散布されると、ただちに高橋正彦は農安に向かったことになる。高橋は「昭和15年6月カラ11月ニ至ル農安ペスト流行時ニ其ノ流行ノ根源地ニ至ル農安街ニ於ケル住人ニツキペスト皮膚反応ヲ検査シ、之ヲ地域別、性別及年齢別ニ観察セルニ極メテ興味深キ成績ヲ得タリ」と書いている。そして、高橋は、はやくも1940/07/02と1940/07/15に農安の腺ペスト患者の腺種から菌株を分離している。さらに、高橋は農安の下水溝のノミ、ネズミの有菌性を地域ごとに詳しく調べ、感染経路を明らかにする調査をし、「ドブネズミ間ノ病毒ガ人ペストノ直接ノ伝染源トナッタ。」「蚤ヲ介シテ人ニ伝播サレタモノ」(「高橋正彦ペスト菌報告書」)と結論付けている。農安のペスト発生により合計353人が死亡した。1940年9月下旬には60キロほど離れた「満州国」の首都新京(現在は長春)にも感染した。1940/10/07に現れた731部隊は、「関東軍臨時ペスト防疫隊」として活動する。この防疫隊の本部長は石井四郎、他に満州国、満鉄(南満州鉄道株式会社)の要人が本部を形成し、1940/11/07に新京から平房へ撤退するまで1ヵ月間新京に滞在した。満鉄が派遣した医師は145人、満州医大生も147人が新京に派遣された。このように、731部隊が新京・農安に出動して防疫活動をしたのは、浙江省における細菌作戦から眼をそらすための陽動作戦だっただけではない。731部隊は防疫活動の中で新たなペスト菌株を得たのである。





2012年9月16日 (日)

731部隊による細菌戦 ②

まず、ノモンハン事件のときに731部隊がハルハ河支流、ホルステン河上流でチフス菌を散布したのに続いて、日本軍は1940年~42年にかけて中国十数都市で細菌を散布した。1940年秋には浙江省の諸都市にペスト菌が散布された。10月4日は衢州(衢県)に日本軍機がペスト感染ノミを投下してペスト流行させたが、1940/12/07に流行は一時終息するものの、2次3次感染により被害は拡大し、防疫のため医師・ポリッツアーが派遣された。ようやく 1941年12月にペスト流行は終息するが、衢州県域と周辺農村の死者は1500人を数えた(医師・邱明軒の推計)。続いて1940/10/27、寧波に日本軍機がペスト感染ノミを小麦の粒とともに投下し、ペスト流行は12月2日まで続いたが、1ヵ月余の間に109人が死亡した。1940/11/27~11/28は、金華に日本軍機がペスト生菌を投下した。この時の生菌であるため地上に落下するまでにペスト菌が死滅し、ペストは流行しなかった。このように寧波と衢州ではペスト感染ノミを、金華では生菌を投下しているが、これは両者の効果を比較するためであっただろう。1年間のブランク後の常徳の投下(1941/11/04)では、周辺の農村の数次感染を含めると、現在その氏名・住所がわかる死者は7000人を超えている。1942年8月の細菌攻撃は、浙贛作戦の際、打通後日本軍が撤退するときに地上でPXなどを散布したもので、広信、広豊、玉山はその典型だ。以上の細菌戦の実例は、金子順一論文の表あった3番目~6番目のケースに示されている。だが、最初の2つのケース、1940/06/04、農安でPX:5g 散布され、1次、2次計615人の死者が出たこと、続いて6月4日~7日まで農安、大賷に到る各地でPX :計 10gが散布され、1次、2次計2436人の死者が出たことは、これは、今回初めて判明。これまでは1940年の農安ペストは自然発生と考えられており、それが新京に伝播して新京ペスト大流行になったと捉えられてきたからだ。そうなると、ペスト班長・高橋正彦の農安・新京ペスト調査論文も新たな意味をもってくることになる。





2012年9月15日 (土)

731部隊による細菌戦 ①

ノミをペスト菌に感染させ飛行機から投下する方法は、ペスト菌を空中から投下すれば、菌は死滅するという、当時の世界の生物学会の常識を超える731部隊の独自の発明であった。ハルビン郊外の平房にあった731部隊の通称 ロ号棟のなかには、第1部・細菌研究部(部長は菊池 斉)と第4部・細菌製造部(部長は川島 清)が置かれたが、第1部のペスト菌研究の責任者は高橋 正彦であった。彼が1940年農安・新京ペストの調査を行い報告書を作成するのである。第4部のペスト菌製造の責任者は野口 圭一であった。部長の川島清は、ハバロフスク裁判所(1949/12)で、ノミの大量繁殖のために平房の第2部に4つの特別室があり、30℃に室温保持され、2~3ヵ月の製造周期に45kgのノミを採ることができたと述べたあと、次のように答えている(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』 外国語図書出版所、1950年、300ー302頁)。(問)細菌戦ノ際、此ノ蚤ヲドウスル積リダッタカ?(答)ソレハ、ペスト菌デ汚染サレル筈デアリマシタ。(問)ソシテ、細菌兵器トシテ使用スルノカ?(答)ハイ、其ノ通リデアリマス。(問)ペスト蚤ヲドンナ方法デ、細菌兵器トシテ使用シヨウトシタノカ?(答)私ノイタ時ハ、蚤ヲ飛行機カラ投下スル方法ガ最モ有効ナ方法デアルト看做サレテイマシタ。(問)中国派遣ノ時モ、蚤ヲ飛行機カラ投下シタカ?(答)ハイ、ソウデアリマス。(問)ソレハ、ペスト菌デ汚染サレタ蚤ダッタカ?(答)其ノ通リデス。中国ニ於ケルペスト蚤ニヨル細菌攻撃ハ、ペスト流行病ヲ発生セシムル筈デシタ。防疫給水部は、ハルビン(平房)の731部隊のほかにも、中国各地につくられた。1940年までには北京(「甲」1855部隊)、南京(「栄」1644部隊、多摩部隊)、広東(「波」8604部隊)にでき、それぞれが数支部から十数支部を持っていた。日本軍がシンガポールを占領すると、シンガポールにも南方軍防疫給水部(「岡」9420部隊)を設置した。これらの部隊は、731部隊が関東軍司令官の指揮下におかれたように、それぞれ北京が北支那派遣軍、南京が中支那派遣軍、広東が南支那派遣軍、シンガポールが南方派遣軍の司令官の指揮下にあった。このように中国各地に細菌戦実施の組織が網の目のようにできていたのである。





2012年9月14日 (金)

金子順一 論文の発見

松村高夫(慶応大学名誉教授)さんの記述をコピー・ペー:2011年夏に那須重雄氏(NPO法人731部隊細菌戦資料センター)が金子順一論文を国会図書館関西部で発見した。それは731部隊による細菌戦の実施の新データを含んでいたので、日本では『朝日新聞』(2011/10/15)、『東京新聞』(2011/10/16)が報道し、韓国、中国でも衝撃を与えるニュースとして報道。金子順一は1936年東京帝大医学部を卒業し、1937年7月に関東軍防疫部(731部隊)員になり731部隊長石井四郎に徴用された軍であった。1943年3月には陸軍軍医学校部員、1943年4月には第九技術研究所(登戸研究所)所員を兼任し、1945/08/31に復員した。戦後は、1950年9月から1973年3月まで武田薬品に勤務し、山口県光工場でワクチン製造にかかわっている。金子が戦後、1949年東京大学に医学博士号取得のために提出した論文は、『陸軍軍医学校防疫研究報告』第1部に1940年~1944年にかけて掲載された論文8点を合本したものである。8点のうち、特に注目すべきは「PXノ効果略算法」(『同』第1部、第60号、1943/12/14 受付)である。Pはペスト菌、Xはケオプスネズミノミのことで、PXとはペスト感染ノミを意味する。その論文のなかの「従来の作戦等によるPXの効果」を示す「既往作戦効果概見表」が特に重要である。6つの細菌「攻撃」ごとに、地名、実施日、散布したPXの重量、1次感染による死者、2次感染による死者が示されている。PXの重量がグラムになっているところは地上散布、キログラムとなっているところは飛行機からの空中散布だろう。細菌攻撃実施日と地名は、1940/06/04 農安(吉林省)、1940/06/04~07 農安、大賷(吉林省)、1940/10/04 衢県(浙江省)、1940/10/27 寧波(浙江省)、1941/11/04 常徳(湖南省)、1942/08/19 広信、広豊、玉山(江西省) を示す。なお、散布したPX量以下のことは略する。





2012年9月13日 (木)

歴史を振り返ることの意味 ②

そして、私たちが現在進行形で直面しているもう一つの「医の倫理違反」、それは、福島原発事故をめぐってのものだ。医学者の中には、原子力村と呼ばれる政府、電力会社、研究者、マスコミが作る癒着のネットワークに組み込まれ、事故発生前さらには発生後に至っても、「原発は安全だ」「放射能による健康被害はほぼない」などといった発言を繰り返した。もちろん、エビデンスにまったく基づかないいたずらに危険をあおる発言も、それはそれである種のモラル違反と言えるかもしれない。ただ、明らかに特定の政策や企業の利益のために、一方的な主張だけを「医学的」だと称して繰り返すことの罪は重く、ここは「医学の世界も村的体質だから」などと言って引き下がらずに、ぜひとも医学者、医師が必要な批判、反論を発表し、徹底した議論を公開の場で行うべきではないか。「医の倫理」の基本は、言うまでもないが目の前の患者さん一人一人にやさしく、心を尽くすことだ。ただ、それを全うするためにも私たちはときに歴史を振り返り、社会を広く見わたさなければならぬ。そして、過ち、間違い、失敗を認め、謝罪し、そこからはじめて歩み出せる一歩もあるということを、もう一度、確認しておきたい。




2012年9月12日 (水)

歴史を振り返ることの意味 ①

いくら時間が経過した後であったとしても、自らの行為を認め、検証し、謝罪を行うことは、「遅きに失して完全に意味はない」ということはないだろう。ドイツのDGPPNは正式な謝罪の後、さらに委員会を立ち上げ、研究や調査のためのプロジェクトをサポートすると表明している。恐らく非人道、非倫理的行為を事実と認めたうえでの調査と、事実がどうかを明らかにするための調査とでは、取り組みの心構えからして全く違ったものになるはずだ。後者は、「あわよくば”事実はなかった”ということにしたい」という願望を無意識的に孕みながらのバイアスがかかった調査になるだろうし、それに比べて前者は、「なぜ起こしたか」だけではなくて「今後二度と起こさないためにどうすればよいか」「国民への責任をどう取るか」という現実的、具体的そして前向きなものになるだろう。医学的な問題に限らず、「戦争責任を検証する」というテーマに着手しようとすると、必ず「自虐史観だ」という批判の声が上がる。中には、「そんな古い話を持ち出して謝罪することに何の生産性もない」と、戦争責任を問い正すことにさえ意味を認めようとしない人さえいる。しかし、それは間違いだ。未来を正しく見すえ、どの方向に進むのか、そのためには何をすればよいかを本当の意味で建設的に議論するためにも、「自らの過ち」を認めることは不可欠なのだ。「自分が直面したくない葛藤をなかったことにする」という心の動きをフロイトは基本的な心の防衛メカニズムとして「否認」と呼んだ。また、「悪いのは私ではなくて、あの人(国)だ」と相手に罪をなすりつけるのは「投影」だ。いずれも誰の心にもあるメカニズムだが、こうやって葛藤を回避していては、正しい判断も前向きな解決もできないことは言うまでもない。





2012年9月11日 (火)

戦争と医の倫理の検証 ②

小俣氏の論文から引用:「加害者であった医師個人の実名を名指すことで、すでに述べた医師の師弟関係による医学界の『村的体質』とそれに由来する隠蔽体質、さらには医師の権威失墜を嫌う無謝罪体質という二つの大きな内部障壁を乗り越えれることに、少なくとも成功しているといえるからである。そこには学会員の個人責任が明瞭に指摘されている。」(前掲論文より)しかし、私たちはこれを他山の石として眺めてはすまされないことは、言うまでもない。理由の一つは、歴史の中に、もう一つは現在進行形で起きている事象の中だ。まず、歴史的事実の方は。小俣氏や筆者(香山リカ)も世話にを務める「『戦争と医の倫理』の検証を進める会」の活動を見るまでもなく、日本では、十五年戦争と言われる日中戦争と太平洋戦争の期間に、731部隊が占領各地で非人道的な行為を行ってきたことは、すでに、多くのルポや小説などによって人々に知られている。731部隊とは、関東軍の研究機関の一つの通称号である。満州を拠点に置き、「兵士の感染症予防や衛生的な給水体制の研究」を名目上の主任務としていたが、細菌戦に使用する生物兵器の開発機関の中核でもあった。多くの医学者、医師が所属し、中国人、朝鮮人、モンゴル人、ロシア人などに対して大規模な感染実験や死亡者の解剖、さらには手術演習という名目の生体解剖までが繰り返されたと言われる。犠牲者の数に関してはいまなお議論があるが、「少なくとも3千人」という定説。日本の場合、731部隊にかかわった医学者や医師は東京裁判の被告になることはなく、法的裁きを一切免れた。そのように個人的責任を問われるどころか、部隊に所属した者の多くは戦後、大学、国立の機関、製薬会社で要職に就き、医学の復興の担い手と言われ高い評価を得ることになったのだ。ドイツ同様、この問題がひそやかな声で語られていたのは”医学界の外”においてであり、部隊にかかわった医師が著書を出したり証言を述べたり、先述した「検証を進める会」のような医師を中心とした会が発足したりし始めたのは、21世紀になってからのことであった。





2012年9月10日 (月)

戦争と医の倫理の検証 ①

ところが、それでもドイツ精神医学会が正式に犠牲者や遺族のための追悼式典を開催し、謝罪を述べるまでには、70年という気の遠くなるような時間が経過したのである。なぜ70年なのか。そして、たとえここまで時間がかかったにせよ、とにかく謝罪したことを私たちは評価すべきなのか。それとも、強制不妊諸術を受けた人もガス室で殺害された人の遺族もすでに多くが世を去った今になっての謝罪は評価に値しない、と考えるべきなのか。そのあたりについては、この問題を長年、追求し、早くから日本に紹介してきた精神科医・小俣和一郎氏が『世界』2012年4月号に掲載された論文に詳しく述べている(「いま医の倫理を問う意味ー『ナチ時代の精神医学ー回想と責任』をめぐって」)。この論文の中で小俣氏は、ここまでドイツの精神医学界が自分たちの過ちを正式に認めようとしなかった理由として、「同業者をかばい、批判することはタブー」とする医学の世界独特の「村的体質」と「患者から信頼され、治癒効果を得るために」という理由で正当化されてきた「医師の権威の保持」とが関係している、と説明する。「村的体質」については、たとえ明らかな医療過誤があった場合も、法廷に証言として呼ばれた医療関係者は徹底的に同業者を庇護しょうとする、といった事例でこれまでも知られてきたことだ。また最近では、福島原発の事故後、放射能の影響を警告する医師と「大丈夫」と言う医師がマスコミに登場したが、それぞれが議論したり相互批判を繰り広げる場面はほとんどなかった。胸の内はともかく、表面的には「向こうの先生には先生のお考えがありますし」と相手を過剰に尊重し、その領分には立ち入らない、という不可侵条約のようなものが医学界にはあることは事実。そして70年を経たとはいえ、今になって謝罪したことの価値についても、小俣氏は部分的に認めようとしている。今回の声明自体は、歴史研究家などによってナチ時代に精神科医が行ったことが白日の下にほぼ晒された現在、当事者である学会ももはや沈黙は許されない、という外圧に耐えかねてのものだったのかもしれない、とはいえ、声明には、ナチに加担した精神医学者の実名があげられている。





2012年9月 9日 (日)

司法の場で裁かれる戦争医学犯罪として

それにしても、プリンツホルンが精神障害者の芸術性への深い敬意を持ちながら集めたコレクションが、なぜやすやすと「前衛芸術と障害者をあざ笑う手段」として差し出されることになってしまったのだろうか。理由は二つある。一つは、当のプリンツホルン自身が1933年に世を去っていたことだ(しかし考えようによっては、たとえ存命でもコレクションを供出させられることは避けられなかっただろう、わが子のような作品群が「頽廃芸術展」に並ぶのを見ずに亡くなったのはむしろ幸いだったと言える)。もう一つ、ハイデルベルク大学の精神科主任教授の座にあったカール・シュナイダーは、ヒトラーの参謀といわれるほど中央政権に近い人物であったのだ。シュナイダー教授は、1939年の講演「頽廃美術と狂気」で次のように述べている。「頽廃芸術はまさに病人の美術にはかならない、精神病患者でなければ、狂気の美術と殆ど区別のつかない『芸術産物』などを制作することはできない。健常者には不可能な頽廃芸術の制作者は、生物学的に精神病者に近く、異常者と内面的に類似性を示す。」ナチ政権の崩壊とともに、もちろん前衛芸術や障害者の作品を「頽廃芸術」と呼ぶ潮流も消滅した。しかし、巡回展そして政権崩壊に伴う混乱の中でプリンツホルンが精魂込めて集めた作品群は傷んだり紛失されたりし、戦後、再び回収して修復され同名のコレクションとして展示されるようになるまでは、長い時間を要することになった。このような過ちの一部は、戦後、ニュルンベルグ医師裁判など司法の場で戦争医学犯罪として裁かれることになった。また精神障害者の命、人権を奪おうとするナチの政策に、大御所と言われた精神科大学教授や第一線で臨床に携わる精神科医が直接、かかわっていたという非倫理的な行為の実態も、歴史家、ジャーナリスト、人権団体、そして一部の医学者の告白によって次第に明らかにされていった。



2012年9月 8日 (土)

プリンツホルン・コレクションをナチは悪用した。

ナチが行った精神障害者への蛮行は、T4作戦にとどまらない。直接、命にかかわることではないといえ、精神障害者への芸術療法やその作品(アウトサイダー・アート)
を研究する筆者(香山リカ)には、どうしても見過ごせない問題がある。ナチが政権を取る前の1920年前後、ドイツの精神医学の名門・ハイデルベルグ大学の助手であったハンス・プリンツホルンは、精神病患者と芸術性や創造性との関わりを研究し、ドイツ国内を中心に世界中から作品を収集した。それらの作品を異常と判断したり診断の材料として使用するのではなく、そこに独自の価値を見出そうとし、著作『精神病者の芸術性』にまとめた(1922)。その著書と膨大な作品群(プリンツホルン・コレクション)は、当時、精神医学者よりもむしろフランスのジャン・デュビュッフェを始めとする多くの芸術家に衝撃を与えたと言われている。ところが、ナチが政権を握ると状況は一変する。ナチの天才広報マンと言われた宣伝相ゲッベルスのもと、1937年「頽廃芸術展」なる大がかりな芸術展が企画され、ドイツ・オーストリアの13都市を巡回した。この目的は、古典以外の近代芸術、とくに前衛的なダダイズムやキュービズムなどを否定し、ドイツ国民の「美の基準」を統一することであった。背景にあるのは、「髪はブロンド、色白で健康的な身体を持ったゲルマン民族のみが美しく、何としてもその純血性を保たなければならない」という価値観を国民にすり込むことにあった。そして、この「近代芸術絶滅・国民浄化キャンペーン」を挙行するにあたり、古典以外の芸術の価値を貶めるための格好の手段として目をつけられたのが、プリンツホルン・コレクションであったのだ。展覧会では、クレー、モンドリアンなどの絵画や彫刻とともにコレクションが「狂人の絵」として展示され、これらがいかに「狂気、厚顔無恥、無能の産物」であるかが強調された。その後、90年代になって同様に確立されたアートとアウトサイダー・アートを並べて展示する「パラレル・ヴィジョン展」と展覧会が企画されたことがあったが、言うまでもなく、ここでは共通点があることでアート、アウトサイダー・アート、双方の価値は高まりこそすれ、貶められることなどまったくなかった。しかし、その半世紀前には、「シュールレアリズムの絵画はまさに精神病者の絵そのものだ。こんなものは芸術ではない」「どちらもまったく理解不能だし、美しさからかけ離れた無価値なものだ」と嘲笑され、非難されていたのである。




2012年9月 7日 (金)

70年の沈黙を破ったドイツの精神科医たち ②

「安楽死計画は整然と執り行われました。国内の全精神病院と全障害者施設は、本部から送り付けられた文書に、入所者全員の障害程度を克明に記入して提出することが義務づけられていました。これに基づいて、鑑定を請け負った精神科医たちが殺す対象を選びました。国内何百もの病院や施設から6つの殺人拠点に障害者を運ぶのは、患者搬送公益有限会社の大型バスです。ハダマール精神病院の裏にはいまも、降車場所に使われた木造車庫の屋根の部分が残されています。患者運送バスを降りた一団は一階ホールで『お疲れでしょ。汗を流してくつろいでくださいね』とフーバー婦長にいわれて衣服を脱ぎます。地下のシャワー室に案内されると、鉄の扉が閉まります。お湯の代わりに、壁を這う管の小穴からCOガスが噴出します。そして…20分ほどで全員が絶命します。」(大熊一夫「障害者問題の原点ナチス安楽死計画」 『大熊一夫の特ダネ画廊』より)筆者は現在、大学の人文系の学部で教鞭を取っているが、学生たちに「ナチによって虐殺されたのはユダヤ人だけではない。同じドイツ人でも、障害を持っている人、同性愛者や政治犯なども虐殺の対象になった」と述べてT4作戦を紹介し、「病気を治療のために入院している病院で、命を守ってくれるはずの主治医らによって選別され、何も疑われずに殺されて行ったのだ」と話すと、学生たちは「知らなかった」と衝撃を隠さない。





2012年9月 6日 (木)

70年の沈黙を破ったドイツの精神科医たち ①

香山リカ(精神科医)さんの記述をコピー・ペー:ありとあらゆる職業の中でももっとも高い倫理が要求されるもの、それが医療だ。中でも医師は、倫理の象徴とも言うべき存在でなければならない。素朴にそう信じている人は、世間の中にも、そして医師たちの中にも少なくないだろう。しかし、倫理とは単に「目の前の患者に対して誠実に対応すること」や「私利私欲を打てて最善の治療を行うこと」といった現在の問題においてのみ、問われることではない。過去の過ちを認め----たとえそれがそのときは”倫理的”であると信じてそうしたにせよ----二度とそのような過ちを繰り返さないために何ができるかを考える、と過去や未来に対しても責任を負うこと、それこそが真に倫理的な態度と言えるのではないだろうか。だとしたら、医師とくに日本の医師ほど倫理とはほど遠い存在はない。同業の身としてそう口にするのはたいへん残念なのだが、そう言わざるをえないのが事実である。東日本大震災と原発事故、立て続けに起きる余震や節電でパニック状態にあった2011年夏、精神医学会に別の意味での衝撃が走った。それをもたらしたのは、『精神神経学雑誌』に載った解説と翻訳原稿であった。執筆者は、岩井一正氏であり、タイトルは、「70年の沈黙を破ってードイツ精神医学精神療法神経学会(DGPPN)の2010年総会における謝罪表明、(付)追悼式典におけるDGPPN フランク・シュナイダー会長の談話『ナチ時代の精神医学ー回想と責任』」となっていた。これは、その前年、2010年11月にドイツ・ベルリンで開かれたドイツ最大の精神医学会DGPPNの席上、シュナイダー氏が発表した声明を邦訳し、解説も付加している。ナチが政権を握っていた時代に、迫害を受けたのはユダヤ人だけでなく、身体障害者や知的障害者、精神障害者が「人類学な見地から」として強制的な断種(不妊手術)の対象となり、大戦突入した後にはガス室で「安楽死」という名の大量虐殺が施行されることになった。とくに精神障害者、知的障害者への「安楽死」はT4作戦と称され、入院中の患者たちはユダヤ人たちと同じ強制収容所ではなく、ドイツ国内6つの病院に付設されたガス室で命を奪われた。その数7万人、さらに食糧制限など他の手段で結果的には犠牲となった精神障害者は20万人とも27万人とも言われる。ジャーナリスト大熊一夫氏は2004年、1万人以上も殺害したガス室があったといわれるハダマール精神病院跡地を訪ね、当時のことを説明している。





2012年9月 5日 (水)

2012/07/14 中村 哲さんの報告 ④

東日本大震災の影響で、ペシャワール会(PMS)の予算は縮小を余儀なくされたが、2010年度からのJICA共同事業の河川工事が継続されたため、規模は発足以来最大となった。治安悪化は事業進行に殆ど影響しなかった。ダラエヌール診療所は変わらずに続けられ、ハンセン病患者の治療の場所を再建することが課題となる。灌漑事業は、マルワリード用水路の最終段階である保全態勢に着手すると共に、隣接地域の安定灌漑を目指し、取水堰及び、一連の取水システム(取水門・主幹水路・調節池・送排水門・関連護岸などの建設が次々と進められた。ガンぺリ沙漠開墾は、2011年5月の砂嵐と同年10月の鉄砲水、11月のクナール河渇水で一時中断せざるを得なくなったが、防砂林の植樹を活発化し、給排水路の整備が更に行われた。用水路は事実上シギ村落まで延長されることになり、2012年4月、洪水路横断工事が開始。長い対立が続いていたマルワリード対岸・カシコート地域は、2011年10月に和解が実現し、2012年2月、大洪水で破壊された主幹水路復旧と取水堰と一連の取水システム建設をめざして護岸工事が開始された。この結果、ジャララバード北部穀倉地帯(耕地1万6500ヘクタール、65万人)の復活と安定灌漑をめざす「緑の大地計画」は、ほぼ仕上げの段階に入った。




2012年9月 4日 (火)

彼の考え方 ②

また日本とオーストラリアは、米国の核兵器による「抑止力」で自国を防衛しようとする「核の傘下国」であり、このため、両政府は核兵器の国際規制をリードするのではなく、むしろ動きが鈍いのです。世界大会では、核兵器使用の影響に関する新しいデータについて協議されます。インドやパキスタン、イスラエルなどの地域紛争で、世界の核保有量のほんの一部が使われただけでも、かってない規模の地球的な寒冷化と少雨が続くことが、いくつかの科学グループによる研究で分かりました。突然の寒冷化は農業を破壊し、未曽有の大飢饉が世界を襲うでしょう。核兵器はあらゆる人と環境に対する脅威であり、実現可能な唯一の解決策は、核廃絶という根本的な予防であるという現実を確認し、広く知らしめる必要があります。世界保健機構(WHO)は、核兵器は人々の健康と福祉に対する最も差し迫った脅威であると明確に述べています。この空前の脅威を取り除くことは、したがって、人々の健康を守り促進することを委ねられたすべての医療者の職業的・倫理的責任といえます。日本の多くの医療者、医療従事者が、世界中から訪れる仲間と集うことを願っています。そして、今日の世界において、人々の健康に関する緊急優先課題、つまりすべての核兵器を排除するため、核兵器廃絶条約が必要であり、これ以上先延ばししてはならないという医療者たちの明確な、看過できない声を人々に届けてほしいと思います。





2012年9月 2日 (日)

彼の考え方 ①

IPPNW理事である、ディルマン・アルフレッド・ラフさんは言う。私たちは今、分岐点にいます。この先、核兵器のない世界に向けて本格的な進展が見られるか、あるいは、核拡散が進み、その恐ろしい最終兵器を使わざるをえないような事態になるか----。広島と長崎の被爆者による証言は、核兵器に関する議論の重要な出発点になりました。そして今、福島原発事故後という重要な時期に、核戦争防止国際医師会議の第20回世界大会(8/24~8/26)が、広島県で開催。この事故は、無差別の、世代を超えて続く許しがたい放射線の危険性に再び光をあて、原子炉と使用済み燃料プールの脅威にも注目を集めました。これらは、巨大な放射能兵器があらかじめ設置されているようなものです。今後、地球に優しく再生・持続が可能なエネルギーに転換し、核兵器への転用が可能なプルトニウムの山を放棄するか----。日本は現在、どちらに転ぶか分からない状態です。日本はオーストラリアと同様、核の問題を解決するというよりも、むしろ問題のある国の一つになっており、人々が望むことと現実の間に深い溝があります。両国は核燃料の鎖は深く絡んでいます。日本はたくさんの原子炉を持ち、膨大な量の分離プルトニウムを蓄積し続けています。オーストラリアは、原子炉にも核兵器にも使えるウラニウムについて、世界の保有量の40%を確保し、現在、そして未来に渡って平和利用されるという確証も得ずに海外に売っています。





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