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2017年6月14日 (水)

「共謀罪の現実」 ⑤

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 その結果、当事者と弁護団は、公権力による個人に関する情報収集等が、個人の行った表現行為(その一つである市民運動ないし市民活動)に目を着けられた時には、表現の自由に対する不当な干渉に当たり、憲法21条・13条によって保障されているところの、表現の自由の行使について公権力からの干渉を受けない個人の人格的権利(これを表現行為人格権と称する)を侵害するものと考えた。
 即ち、本件におけるA及びBは、自らの生活圏に風力発電施設が建設されるrと聞き、その是非を検証するために勉強会を開催し、これを広く呼び掛けた。また、C、Dは、広く社会問題に関心を持ち、憲法と平和、自然環境の保全、脱原発運動にも取り組んできた。当事者はいずれも、市民が政治・社会問題に関心をもち、これを自らの ものと捉え、様々な意見を持ち活動することが、民主主義社会に必要不可欠なものと考えており、そのような社会の実現を望み、自らも行動を行っている。こんな市民の活動は、表現の自由によって保障されるだけでなく、それ自体が個人の幸福追求権の一環であるということが出来るものと考える。これは、表現の自由が、自己表現と自己統治の価値を併せ持つと指摘されているのと考えている。
 そして、こんな市民活動は他者とのコミュニケーションが不可欠であり、このコミュニケーション過程が保障されることが必要である。他者との意見交換なしには、個人の人格の発展も民主社会における意志決定も行う事ができないからである。つまり、表現の自由は、他者に働きかけることを当然の前提にしているのである。
 ところで、こんな市民活動は、公権力つまり、警察によって、その活動を監視されることから自由である必要がある。何故なら、警察監視を行うということは、市民運動を敵と見ていることの表れであり、この監視は、市民を活動から遠ざける効果をもたらす。監視は、コミュニケーション過程を破壊するものに他ならない。つまり、警察の監視活動が行われれば、市民の活動に対して極めて強い萎縮効果が働き、結果的に市民運動の自由を行使することが不可能となってしまうからである。表現の自由が萎縮させられることのないようにするためには、その人格的利益の側面に目を着けることが重要でないかと考え、表現行為人格権を主張しているしだいである。




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