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2017年7月19日 (水)

「オルタナ・ファクト」「ポスト真実」

西谷 修(立教大学特任教授)さんはフランス大統領選からEU・米・日本の政治の行方―― :コピー・ぺーする。
 いま欧米では勢いをえている「自国中心主義」「自国ファースト」の主張とそれへの共感の背景には、グローバル化(多極化)によって脅かされていると感じる西洋人たちの既得権防衛への欲望が潜んでいる。その欲望は、欧米諸国の歴史的罪業を否認する。だから、マクロンがアルジェリアで「植民地支配は残酷な誤りだった」と発言すると、保守派から強い反発がやってくる。しかし植民地支配が先進国の歴史的「罪過」であることを認めることなしに、諸国間の協調はありえない。それに「誇りある文明」とは暴力的支配に居直るものではなく(それは「野蛮」と言われる)、むしろそれを過ちと認め、繁栄を分かち合おうとするものだとされる。戦後のドイツが国際社会の信頼をかちえ、分断を超えて再統合を果たし、今ではEUの中軸国になったのも(過度に「ひとり勝ち」とさえ言われるが)、過去の過ちを認める重い負担をドイツが担ってきたからである。
 しかし第二次大戦後70年を経過した今、グローバル経済のやみくもの深化(レッセ・フェール)のなかで先進国社会そのものの安定が掘り崩されているとき、その不安な土壌に、忘却に十分な「時が来た」として復活しているのが、力による支配(歴史的暴力)を「罪過」と認めることを否認し、自己肯定に引きこもることで力を得ようとする勢力である。この勢力は、外部と実際には敵対できないから、内部に異物としての「敵」を作ろうとする。
 それは必然的に「修正主義」あるいは「ネガショニズム」の傾向を抱えるが、その傾向はときどきの論議の場では、荒唐無稽な「オルタナ・ファクト(別の事実)」の製造や、その積み重ねによる「ポスト・トゥルース(脱・真実)」と言われる事態を作り出す。認定された事実を承認するのを拒み、「別の事実」を持ち出す。あるいは、もはや「真実」などに意味はないとして、人々の感情に訴え、そこから快を引き出すものが通用力を持つのだと、空疎な断言の反復によって「真実」を失効させようとする。「アウシュヴィッツにガス室などなかった」「ヒトラーの犯罪はユダヤ人のでっち上げだ」「植民地化によって未開の地は文明化の恩恵に浴した」「拷問を受けたのは危険なテロリストたちだけだ」……。「ポスト・トゥルースの時代」はこうした「オルタナ・ファクト」の畳みかけで開かれる。そして、自分たちが否認する「罪過」を手近な他者――それもまさに歴史的に作られた――に投影して「出て行け」「死ね」といった言辞を浴びせる。それが「ヘイト・スピーチ」である。フランスならマグレブ系のアラブ人二世・三世に向けられる排除の姿勢は、日本なら在日韓国・朝鮮人や中国人に向けられる(最近では沖縄県人にも)。「在日」の人々はなぜ日本に住んでいるのか、その歴史的事情を故意に無視し(あるいは無知なため)、彼らに不当な差別的・排除的言辞を向ける。そして「嫌韓本・嫌中本」を書店の棚にあふれさせる。それは歴史を無視し、否認し、「オルタナ・ファクト」を畳みかけて「ポスト・トゥルース」を演出する、歴史否認の欲望の発露なのである。
 トランプはそれを十分に活用した。ルペンやEU諸国の極右勢力もそうである。そして日本も同じような現象がある。ルペンと国民戦線はなぜ「極右」と呼ばれるのか。右と左が保革に対応いるとすれば、通常の保革の勢力はフランスの公共性の枠組みを守っているが、国民戦線はアルジェリア独立も否認し、アウシュヴィッツも否認するところから出て来た。その反ユダヤ的傾向はいまでは反イスラームへと変わっているが、「贖罪の羊」を国内の「異物」求めてそれを排除しようとする傾向は変わらない。規範的事実を否認する、だから「極右」なのである。だとすると、「戦後レジーム」の転覆をはかる日本の安倍政権は、もちろん「保守」なのではなく、まぎれもない「極右」政権そのものだ。





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