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2017年9月 1日 (金)

加計学園問題の本質 ⑤

続き:
 文科省内で作成・共有された内部文書について朝日新聞が5月17日に報道して以来、獣医学部の新設に関わる加計問題を巡って国会が揺れ、巷では首相が解明されないことへの苛立ちと政治不信の声が目立つようになった。同内部文書の存在と「総理のご意向」の有無を巡って安倍首相や菅官房長官など官邸サイドと野党議員や前川氏との応酬が続いた。そのうえ、その文書は存在すると記者会見等で証言した前川氏に対し、菅官房長官による彼への卑劣な人格攻撃も繰り返され、その事態はますます泥沼化の様相を呈してきたのだ。
 官邸サイドは同文書の存在を否定し続けたが、そうこうしているうちに、前川氏の証言に呼応して、同文書の存在と省内での共有を示す文科職員のメールや証言が相次いで出てくることになった。かくして、同文書の存在について文科省は追加調査することになり、その調査結果の報告書を6月15日に公表。それに対して内閣府も、関連文書やメールの存否と記載内容の真偽等について改めて調査し、その結果を、文科省の報告書公表日の翌6月16日に内閣府調査報告書として公表。文科省の報告書は大半の文書の存在と内容を認めているのに対し、内閣府の報告書はその多くを否定するものであるが、どちらの信憑性が高いのか。筆者(藤田)の評価は、信憑性・正確性・整合性のすべての点で、文科省の報告書は高いのに対し、内閣府のそれは著しく低い、というものである。その主な理由・根拠は次の三点にある。
 第一に、文科省の報告書は事実資料が多い(存在が確認された多数の文書やメールを提示している)のに対し、内閣府の報告書は<記録はない、記憶にない、言っていない、聞いていない>という主観的言明が目立って多い。この後者は、森友学園問題に係る財務省・理財局長の国会での答弁と同じ、それで、信憑性・正確性が著しく低いと見做さざるを得ない。なお、筆者(藤田)が、本稿の最終校正段階で新たに出てきた文書を含む複数の文書に記載されている萩生田官房副長官は自身の発言とされた記述について全面否定し、松野文科大臣や義家文科副大臣が陳謝した旨の報道もあったが、それらの文書が当時作成されたものではないといった証拠でも出ない限り、筆者(藤田)の評価は変わらない。それどころか、この陳謝は官邸サイドの「有ったことを無かったことする」という圧力の繰り返しを感じさせるものであった。
 第二に、諮問会議や同WG等の審議・決定経緯と照らしても、文科省の調査結果は整合性が高いのに対し、内閣府のそれは整合性がやはり低い。
 第三に、一連の文書に係る内閣府と文科省との関係は前者が後者に対して「岩盤規制」の解除を指示・要請<する/される>という役割・立場の対照性に基づいているから(獣医学部の新設は認めないとする52年前の文部省告示の変更を<依頼する/依頼される>という関係にあるから)、その依頼の内容が実施されることを担保するためにも、記録やメモを作成していないとはどうしても考えにくいのだ。例― 文科省サイドの文書①、文書⑤、文書⑨(16・9・26の面談打ち合わせ)を内閣府はすべて否定しているが、面談事実は認めている以上、記録やメモを作成していないとしたら、それは、依頼した事実を確かめる術もその依頼内容の実施を担保する術も放棄していたことになるから、非常に不自然なことである。





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