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2018年1月17日 (水)

日本発、英国経由、どこでもない場所へ ②

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 探偵物仕立ての次はSF仕立て。2005年の『わたしを離さないで』(Never Let Me Go) は1990年代末のイングランドが舞台だが、そこでは臓器提供のためのクローン人間が造られているのだから、近未来ディストピア小説ということになる。語り手キャシー・Hの友人たちも4回の臓器提供を終えて死んでゆく。キャシー・Hは言う。友人を失っても友人の記憶を失うことはない、と。でも、その記憶が頼りないのだから切なくなる。この作品もブッカー賞最終候補リストに残った。
 SFの次は騎士と竜の出てくるファンタジーだ。2015年に出た『忘れられた巨人』(The Buried Giant) は、舞台をアーサー王亡き後の6世紀イングランドに置く。なぜか、誰も彼もがつい最近の出来事まで忘れていく、だが、ブリトン人とサクソン人が仲よく暮らしていられるのは過去を忘れているからなのだ。歴史上、社会全体が不都合な過去を隠蔽する例の少くないことは論を俟たない。
 この最新作の主人公夫婦アクセルとベアトリスの話す英語もいじってある。例えば、ベアトリスのセリフに' If this creature pitied us our lack of a candle …' (もしもあの人がわたしたちに蝋燭のないのが可哀想だと思ったのなら……)というのがある。普通の英語なら、pity は二重目的語をとらないから、pitied us for our lack of a candle と前置詞の for が入る。これは古い英語を使わせることとは違う。この夫婦はブリトン人だから本当は英語は使わないのであり、その意味で『浮世の画家』に登場する日本人についてと同様の工夫が必要だった。こういうときに独特の英語をこしらえて距離感を出すのがイシグロは本当にうまい。
 前作『わたしを離さないで』に至るまでイシグロは主人公が一人称で語るスタイルを貫いてきた。それを『忘れられた巨人』では採らなかった。このイシグロにとっての新しい試みは注目に値するけれども、必ずしも奏功しなかったように思う。第一章の「わたし」が誰なのかわからずじまいなのが釈然としないし、最終章の「わたし」が船頭 (boatman) であることもじばらく読まないとわからない。
 わたし(真野)はカズオ・イシグロの英語を読むのが好きだし、イシグロの構想力と構成力に舌を巻きっぱなしだ。一つの到達点に安住せず、次々と新境地を開いていく姿勢にも頭が下がる。何より、内と外の境に壁を立て、外に厳しい態度をとる政治が主流になりつつある世界で、イシグロのような背景をもつ作家が普遍性の高い、いわばボーダーレスな小説を書き続けていること、また大きな声と態度で我意を通そうとする政治が目につく今の世界で、イシグロが様々な次元での人間の可謬性を前提にした内容的な文学を書き続けていることの意義は大きい。まことにノーベル文学賞にふさわしい。
     http://masa71.com/   更新しましたので良ろしく。





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