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2018年1月23日 (火)

カズオ・イシグロ氏の講演 ②

続き:
 この時期を振り返り、日本が恨みある敵だった世界大戦が終結してからまだ20年もたっていなかったことを想い出すと、このごくありふれた英国のコミュニティーが、私たち家族を受け入れた寛大さと天性の寛容さには驚かされる。第2次大戦をくぐり抜け、戦後に素晴らしい新たな福祉国家を築いたこの世代の英国人に対し、私が今も持ち続けている親愛、尊敬そして好奇心は、大部分がこの時期の個人的な体験から来ている。
 しかし一方で、私はこの時期、家では日本人の両親と共に別の生活を送っていた。家では別の規則、別の期待、そして別の言葉があった。渡英の両親は当初、1年か、あるいは2年で日本に帰国すると考えていた。実際、英国に来て最初の11年間、私たちは常に「来年には」帰国するという状態にあった。その結果、両親の物の見方は、移民としてではなく、訪問者としてのままだった。両親は、地元の人たちの興味深い習慣について、身に付けなければいけないという責任を感じることなく、意見を交わした。それで長い間、私は大人になったら日本に帰って暮らすのだろうと想定していた。私の日本人としての教育レベルを保つべく、さまざまな努力も成された。毎月、前月の漫画や雑誌、教材が入った小包が日本から届き、私はそれらを夢中でむさぼり読んだ。小包は私が10代の頃、おそらく祖父が亡くなってから届かなくなったが、両親が昔の友人や親戚、日本での暮らしのエピソードを話すことで、日本のイメージや印象は安定的に供給され続けた。そして、私は常に自分自身の思い出も持っていた。それは驚くほど鮮明で広範なものだった。祖父母や、置いてきた大好きだったおもちゃ、住んでいた伝統的な日本家屋(今でも部屋ごとに頭の中で再現できる)、通った幼稚園、地元の電停、橋の近くにすんでいた獰猛な犬、理髪店で大きな鏡の前に車のハンドルが備え付けられた子ども用の椅子などだ。
 私が、散文で架空の世界をつくろうと考えるはるか前、成長していく中で、この全てが意味したことは、私は心の中で「日本」と呼ばれる非常に詳述された場所を熱心につくり上げていたということだ。そこは、私が少しの間暮らしたことがあり、私が誰であるかという一定の感覚、そして自信の源となった場所だ。私がその期間、実際に日本に一度も帰国したことがないという事実が、日本という国への私の見方をより鮮明で個人的なものにした。
 それ故に、記録を残す必要があった。20代半ばとなるまでの間に、当時は、明確な言葉にすることなどできなかったが、いくつかの重要なことに気付くようになった。「私の」日本は、飛行機で実際に行くことができるいかなる場所とも一致することは多分ないということを受け入れ始めた。つまり、私の両親が話し、私も幼年期に記憶していた生活様式は、60年代、70年代に既にほとんど失われていたし、いかなる場所でも、私の頭の中に存在していた日本は常に、一人の子どもが記憶、想像、そして思索から感情の中で組み立てたものだったのかもいれないということだ。そしてたぶん最も貴重な場所である私の中の日本が、どんどんぼんやりとしたものになっていくことに気付くようになった。
 「私の」日本が、他にはないものであると同時に、ものすごく壊れやすいものだという感覚は外界からは確認できないが、私をノーフォークの小さな部屋で執筆活動に駆り立てたのだと今は確信している。その世界の特別な色彩、慣習、礼儀作法、尊厳、短所、そして、その場所について、それまでに思いを巡らせた全てのことが、記憶から永遠に消えてしまう前に、紙に書き留めようとしていたのだ。小説の中に私にとっての日本を消えないように再構築し、書き終えた後に本を指して「そうです。この中に私の日本があります」と言えるようにしたいと思っていた。





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