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2018年1月 1日 (月)

カズオ・イシグロの世界 ③

続き:
 主な登場人物は、ブリトン人の老夫婦、アクセルとベアトリス。蝋燭も使わせてもらえない、しかし、老齢の彼だけでなく、人々の記憶は奇妙に曖昧で、現実と夢と幻想の区別も定かでない。クリエグというドラゴンが吐き出す冷たい霧のせいで、人々が記憶を奪われているためである。夫婦は、彼らにいたはずの息子に再開するために旅に出る。アーサー王の円卓の騎士ガウェインやサクソン人の戦士のウィスタンと出会うが、彼らは夫のアクセルに見覚えがあるように思うと言う。様々な苦難を経て、徐々に記憶が甦る。アクセルは、ガウェインと同じく、アーサー王に仕える騎士であった。彼はサクソン人との間に和平を締結することに成功し、しばしの平和な時が訪れる。幼いウィスタンが、サクソン人の村で畏敬の念を持って仰ぎ見たのは、この頃のアクセルであった。しかし、アーサー王に率いられたブリトン軍は、サクソン人に戦いをしかける。子供を含めて多くが虐殺され、女性は誘拐される。せっかく構築した和平を無にされたアクセルはアーサーを御前会議の場で罵倒して、ガウェインを含む臣下の面々が凍りつく中、王の貴下を去ったのだ。クエリグが吐く霧で人々の記憶が奪われるのは、アーサーに仕える魔術師マーリンのかけた魔法のためである。戦争の記憶の薄れた人々は、風俗や言語の違いにこだわらず、隣り合って平和に暮らしている。
 登場人物たちは、不思議な糸に導かれて、ドラゴンの棲む高原へと集結する。アーサーの指令により、クエリグを守護する任務を帯びたことを明かしたガウェインは、ウィスタンとの決闘で命を落とし、ウィスタンは余命幾許ないクエリグをも屠る。しかし、ウィスタンがドラゴンを殺したのは、ブリトン人による戦闘と虐殺の記憶――それが巨人である――を甦らせることで、平和に共存する人々の間に抗争をもたらし、サクソン人の支配を拡大しようとする主君の指令を遂行するためであった。
 物語の末尾で、老夫婦はすでに逝った息子が眠る島へ、小舟で渡してくれる男と別々に会話を交わす。ベアトリスには、かって不義を犯した過去がある。アクセルはそれを許したはずだったが、クエリグの死により甦った記憶は、なお彼の苦痛を呼び覚ます。一度に渡せるのは一人だけだと渡し守に言われ、ベアトリスは自分が先に島に渡ると言う。一緒に渡るには特別な愛の絆が要るのだ。考え直すように懸命に説得したものの、結局ベアトリスを一人島に向かわせたアクセルは、その場で待つようにとの渡し守の言葉にもかかわらず、海岸を歩み去っていく。二人がどれほどつらく苦しい冒険の旅の途上も、離れることなく過ごしていて間は、一端離れたとき、何が起こるかをかすかに予感していたからである。
 ノーベル文学賞の受賞を決定したスウェーデン・アカデミーによると、イシグロの作品群は、「この世とつながっているという私たちの思い込みかくされた深淵を明らかにする」。つながりが「思い込み」であるのは、普通、つながる先の「この世」は、客観的で確かなものだからであろう。イシグロの世界では、「この世」は必ずしも客観的な確かなものではない。「この世」を形作るのは、客観的事実というより、人と人々の記憶である。
 過去の事実の探索を人為的に遮断する試みは、少なくない。ナポレオン退位後1814年6月、ルイ18世の命により制定された憲章は、その11条で、「王政復古にいたるまでの見解や票決に関する探索はすべて禁止する」と規定する。フランス革命時、ルイ16世を断頭台に送る国民公会の議決に賛同した人々は、王政復古期も少なからず生存し、現役の政治家として活動していた。
 イシグロは、そうした記憶の抑圧を推奨していない。しかし、個人の場合も、国民の場合も、過去の記憶を改めて客観的に検証することは、多大の苦痛とともに新たな抗争の種を伴いがちであるし、未来へ向けて、どのような生き方、社会のあり方を目指すのか、十分な覚悟を問われる。スティーヴンスやアクセルの物語が示すように、記憶をただすことは、当人にとって悲劇的な結末をもたらしかねない。しかも、彼らに残された日々はもはやわずかである。
 イシグロの作品をファンタジーとか探偵小説とか、SF小説とかいったカテゴリーに区分することに、ほとんど意味はない。問われているのはいつも、人としていかに生きるか、とりわけ権力にいかに向き合うか、という普遍的な問題である。
 





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