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2018年1月22日 (月)

カズオ・イシグロ氏の講演 ①

カズオ・イシグロ氏の「私の 20c. の夕べ― そしていくつかのささやかな発見」 2017/12/09、熊日より、― コピー・ペー:
 1979年の秋に私と出会っていたら、あなたは私の社会的地位を見定めることに苦労したかもしれないし、人種的な判別すら難しかったかもしれない。当時私は24歳。顔立ちは日本人のように見えたかもしれないが、当時英国にいた大半の日本人男性とは似つかず、肩まで伸びた髪と、垂れるほどの口ひげを生やしていた。私の話し言葉で識別できたのは、英国南部育ちの人特有のなまりだ。時折、既に廃れていたヒッピー時代特有の怠惰な話し方が交ざっていた。もしあなたが日本に言及し、私にその文化について聞いたならば、私は自分が5歳の時に日本を離れて以降、休暇時でさえ、一度も帰国しておらず、知識がないと告げただろう。その際、私のわずかないら立に気付いたかもしれない。
 その秋に、私はリュックとギター、そして持ち運び可能なタイプライターを持って、ノーフォーク州ボクストンにたどり着いた。古い水車があり、平坦な農地が一帯に広がる小さな村だった。イースト・アングリア大学大学院の創作課程への大学が認められた。ロンドンでの活気に満ちた暮らしと離れ、私は小説家になるために、異常なほどの静けさと孤独の中にいた。
 ボクストンの部屋で、私は夏の間に書いた2作の短編小説を、大学院のクラスメートに見せるだけの出来かどうか考えながら、慎重に読み返していた。その時点で私は、散文小説など書いたことはほとんどなく、英BBC放送に不採用にされたラジオドラマの脚本で、大学院に受け入れられた。作家になろうと思うようになったのはその少し前のことだった。実際には、私は20歳までにロックスターになるという確固とした人生計画をそれまでに立てていた。小さな部屋に入居し3~4週間過ぎたある夜、気付くと私は新たな、迫られたような意志で、日本について書いていた。第2次世界大戦末期の私の出生地、長崎市についてだった。
 私にとっても驚くべきことだったことを指摘しておこう。今では多文化的背景を持ち、小説家を目指す若者は、作品の中で自身の「ルーツ」を題材にすることを直感的にやっている。しかし当時は、それとは程遠い状況だった。英国で「多文化主義」の文学が大流行となるのはまだ数年先のことだった。小説家のサルマン・ラシュディは、絶版小説を1冊書いただけの無名作家だった。
 私が日本を題材にした1作目を書き上げた頃の文学風土はこのようなものだった。重要で新たな方向性を見つけ出したものの、独りよがりとされないかどうかすぐに考えるようになった。もっと「普通の」題材に戻るべきではないかと。かなりためらった後、その小説をクラスメートらにみせるようになった。彼らが高く評価しなければ、私は二度と日本を題材にしなかっただろう。評価され、私は部屋に戻り、ひたすら書いた。79年の冬から80年の春にかけて、私は5人のクラスメート、いつも食べていたシリアルと羊の腎臓を売っている地元スーパーの店員、そして週末に隔週訪ねてきた恋人(現在の妻)のローナを除き、事実上ほとんど誰とも話さなかった。バランスの取れた生活ではなかったが、その4~5ヵ月の間に、私は原爆投下から復興する長崎を舞台にした最初の長編小説「遠い山なみの光」の半分を何とか書き上げた。
 その決定的に重要な数ヵ月間がなければ、私は作家になっていなかっただろう。それからというもの、私はしばしば振り返って自問した。私に何が起きていたのか。あの特異な力は一体何だったのか。私の結論は、人生のまさにあの時点において、私は記録するという急を要する行動に携わるようになっていたということだ。これを説明するには、時計の針を少し戻す必要がある。
 1960年4月、5歳の時に私は、両親らと共に英国のサリー州ギルフォードという町に来た。ロンドンの南30マイル(約48km)にある裕福な「高級住宅地」にあった。私の父は研究者で、英国政府で働くために来た海洋学者だった。
 近所の人々は皆、教会に通い、私は近所の子どもたちと遊んだ際、食事の前に短いお祈りをすることに気付いた。私は日曜学校に通い、間もなく教会の聖歌隊で歌うようになった。地元の小学校に通い、ほぼ間違いなく、学校の歴史上唯一の英国人でない児童だった。11歳からは列車で隣町の(公立エリート校)グラマースクールに通った。列車内では毎朝、ピンストライプのスーツを着て山高帽子をかぶった、ロンドンの会社に通う人々と一緒になった。
 このころまでに、当時の英国で、中産階級の男子に求められるマナーは完全に身に付けていた。友人の家に行った際には、大人が部屋に入って来れば起立すべきだということを知っていた。食事の際に席を離れる場合、許可を得なければならないことも分かっていた。近所で唯一の外国人の子どもとして、私は知られた存在だった。他の子どもたちは私に合う前から私のことを知っていた。私が全く知らない大人たちが時折、地元の商店や道端で私を名前で呼んで話しかけてきた。





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