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2018年1月26日 (金)

カズオ・イシグロ氏の講演 ⑤

続き:
 私とローナは2001年のある夕べ、当時私たちが住んでいたノース・ロンドンの自宅の暗くなった居間で、まずまずの画質のビデオテープに収録された、1934年のハワード・ホークス監督の映画「特急二十世紀」を見始めた。映画はいろんな意味で、素晴らしい出来だった。しかし物語が進むにつれ、私は奇妙なことに映画に没頭していないことに気付いた。1時間ほど経過したころ、簡潔だが印象的な考えがひらめいた。小説や映画、演劇に出てくる、生き生きとした迫真の登場人物たちに、私がしばしば感動することができない理由は、登場人物がお互いに興味深い人間関係にないからではないか、と。そしてすぐに私の仕事に関係する考えが浮かんだ。私が(自分の作品の)登場人物について考え悩むことをやめて、自分自身の人間関係を心配するようになったらどうなるだろうか、と。
 (映画の中で)列車が西部に向かってどんどん走っていき、(主人公役の)ジョン・バリモアがさらに面白い演技を見せるにつれ、私は(架空の世界の)2次元と(現実の)3次元の人物の区別について、(英小説家の)E・M・フォースターによる、よく知られた言葉について考えていた。小説の中の登場人物が「私たちを納得のいくように驚かせることができれば」、その登場人物は3次元になるとフォースターは言った。登場人物が「円熟する}からだという。だが登場人物が「3次元でも、その登場人物の人間関係が2次元のままだったらどうなるのだろうと、私は考えた。ジョン・バリモアを見続けながら、こんな考えが浮かんだ。書き方がどんなに前衛的であろうが昔ながらのものであろうが、全ての素晴らしい小説は、私たちを感動させ、楽しませ、怒りを覚えさせ、驚かせるような、私たちにとって重要な人間関係というものを含んでいなければならないということを。私が今後、自分の人間関係にもっと関心を向けるようになれば、私の(小説の中の)登場人物たちは自立していくようになるのだろう。
 私に言えることは、今日皆さんの前で言及した他の人々に比べると、作家人生で驚くほど遅くになってから気付いた考えだったが、今となってはそれは転機だったと思えるということだ。それ以来、私は小説を違ったやり方で構成していくようになった。例えば、小説「わたしを離さないで」を書いた時、私はまず三角関係を中心に据えて、そこから他の人間関係が広がっていくようにした。
 小説家に限らずあらゆる職業で、重要な転機というものはこうして訪れるものだろう。しばしばささやかで、みすぼらしく思えるような瞬間だ。地味で人目に付かない啓示のひらめきだ。そうそう訪れるものではないし、分かりやすく鳴り物入りで現れるわけでもないし、師や仲間が推薦してくれるわけでもない。より派手で、差し迫ったように見えることに関心を奪われることも多い。社会通念に反していることもあるだろう。しかしそれが現れた時、何であるかを認識できることが重要だ。さもなければ、手中の転機を逃がしてしまうことになる。
 物語は人を楽しませ、時々、重要なことを教え、論じる。しかし、私にとって大切なのは、物語が感情を伝えるということであり、国境や分断を超えて人間が共有するものに訴えかけるということだ。つまるところ、物語とは、ある人物が別の人物に話し掛けることだ。これが、私が感じていることだ。私の言っていることが分かるか。あなたも同じように感じるか、ということを。





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