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2018年4月18日 (水)

トランプのアメリカに住む パート3 ハーバードで教える ⑥

続き:
 精密なシナリオとしてのシラバスとプロフェッショナルな意識を持ったTAは、日本の大学教育を現場レベルで隔てている最も重要な2つの実質的モメントである。当然、日本でも近年では大学改革のメニューの中でシラバスの整備とTA制度の導入が進められている。しかし、形ばかりは導入されても、実際にハーバードで2学期分のシラバスを作成し、TAと共に授業を運営してわかるのは、いまだ両者が似て非なるものだということだ。日本でシラバスは、せいぜい科目の商品カタログにすぎず、TAは担当教員のアシスタントの域を出ない。
 何が問題なのか。結論から言えば、日本では、1学期に学生が履修する科目数が多すぎるのが原因。一般に、米国の大学で学生が1学期に履修する科目数は、せいぜい4~5科目なのに対し、日本は10~12科目程度を履修している。2倍以上だ。この日米大学の履修科目数の差が、日本の大学での科目ごとの学びの薄さを構造的にもたらし、アメリカの大学のようなシラバスとTAを活用する、より手厚い教育の実現を困難にしている。
 何故なら、1週間に10以上も科目を履修していたら、それぞれの科目について予習・復習を入念にすることなど、よほど真面目な学生でも不可能であるはずだ。仮に、各科目が3本の課題文献を受講生に要求したとすると、学生が1週間に読まなければならない論文本数は30本以上になる。こんなことは、勉強しないので世界的に有名な日本の大学生はもちろん、彼らよりもはるかに勉強しているアメリカの大学生だって、まともにこなせる量ではない。過ぎたるは及ばざる如し、かえって学生はやる気を失う。
 それだけではない。日本の場合、学生たちはできるだけ少ない曜日に科目履修を集中させ、残りの曜日をアルバイトに当てようと考えるから、同じ日に4つも5つもの科目をハシゴする。真面目な学生でも、それぞれの授業に出てノートをとるのが精いっぱいで、そこで提起された問題をより深く考える余裕は生まれない。結局、とにかく出席した記録を残し、試験前にノートの事項を頭に叩き込んで単位を取るといった行動パターンが一般化する。
 日本の大学ではこうしたパターンが4年間も続く。卒業までに60~70科目を次々に履修していくのだが、あまりに履修した科目が多いので、それぞれで何を学んだかは容易に忘れられる。
 稀に教師と個人的なつながりができれば、その学生はラッキーだ。一般には単位を得たという以上の何かが科目から学生にもたらされることはない。要するに、日本の学生が勉強しないのは、彼らが不真面目というよりも、そもそも大学教育の仕組みが彼らを学びに開かせる仕方に出来ていないからである。
 他方、学生が1学期に履修する科目数の多さは、教員が担当する科目の多さにも対応している。実際には、大規模総合大学だと大学院独立研究科や研究所があるので話はもっと複雑だが、ここは話をあえて単純化する。大学教授たちは、日本の大学ではアメリカの大学よりも概してずっと多くの科目をを担当している。その分、負担もとんでもなく大きそうだが、実がそうではない。日本の大学では、それぞれの科目に割かれるエネルギーが、アメリカよりもずっと小さいのだ。
 シラバスの違いについては前述したが、個々の学生への対応にしても、授業評価にしても、日本の方がルーズだ。吉見が過去に東大や他大学で担当したいかなる科目も、今回、ハーバードで担当する科目ほどには作りこまれていない。逆に言えば、それぞれの科目単位での負担が相対的に軽いから、担当科目の数が多くても教師はなんとかやっていけるのであり、アメリカの大学のように精密なシラバス、学生への対応を担当するすべての科目で要求されたら、今度は教師たちのほうが疲弊してシステムは破綻してしまうだろう。
 この日米の授業の「重さ」の違いを実感させられた逸話を紹介しよう。吉見の春学期の授業は1月下旬から月曜と水曜の午後に行われる。2月初旬、東大大学院で吉見が主指導をしてきた院生たちの修士論文審査が行われることになった。指導教員として、吉見は彼らの修論審査には出席すべきだと考えた。
 ボストンから東京への直行便は正午頃発の毎日1便で、その便の乗るには水曜の授業を休講にしなければならない。当初、吉見は休講して後で補講をすればいいと考えていた。ところがハーバード大学では、およそ授業の「休講」など許されないことがわかってきた。
 日本の大学でいえば、入試の監督や採点には欠席不可の厳しい拘束がかかるが、授業の休講が問題になることはない。アメリカの大学では、「授業」が日本でいう「入試」に相当する重さを持つのである。結局、吉見は休講せず、その日の夜の便でロサンゼルスに飛び、そこから翌々日の早朝便で一時帰国することにした。
 つまるところ日米の大学は、学生も教師もそれぞれの仕方で帳尻を合わせているのだが、新しい学びの場としてどちらが望ましいかは明らかだ。
 シラバスにしろ、TAにしろ、アメリカの大学で発達した仕組みを日本に導入していく上で1丁目1番地は、学生が1学期に取得する科目数を半減させることだ。
 これは大変なように見えて制度的には簡単だ。現在、日本の大学で学期毎に開講されている科目の多くは1科目が2単位である。アメリカでは、1科目は1学期で4単位の科目が多い。だからこの平均を変える。つまり日本の大学でも1学期1科目の平均を4単位にすればいい。すると必然的にその科目は週2回開講されることになるし、復習のためTAによる討論クラスを設ける可能性も出てくる。4年間で学生が取得する単位数が変わらないから、履修科目数は半分に減る。
 毎学期、学生は5科目程度を受講し、その科目をみっちり学ぶ。年間で10科目。これならば個々の科目の選択が重要性を増し、何を学んだかを忘れない。大学は4年間で30~40の科目を学生の関心に沿って提供していく。
 制度的には簡単だと言ったが、実際にはこうした改革はとんでもなく困難である。科目数を半減させるということは、これまで開かれてきた半分の科目を閉じる、科目間で取捨選択をしていくことを意味。日本では、教授の学問的アイデンティティと彼が担当する科目がしばしば対応してしまっているから、科目を半分に減らすとなれば猛烈な抵抗が生じることだろう。だから正確に言えば、開講科目を最初から半分に減らす必要は無い。学生が選択する履修科目が現在の現在の半分でもいい構造を創り出していけばいいのである。
 1学期4単位で週2回開講し、国際標準レベルのシラバスとTAを備えた授業の数を増やしていく何らかの方策を立て、学生たちがそうした「重い」科目を積極的に取得していくよう方向づける必要がある。学生たちは「軽い」科目を寄せ集めて単位数を稼ぐほうが楽だと思うかもしれない。
 だが、それでは永久に日米の教育の質の差は埋まらないので、「重い」科目の履修こそが大学本来の姿であるという認識を広めていく必要がある。1年や2年では変わらないだろうが、こうした方向での転換策を10年続ければ、日本の大学も、現在のように「軽い」科目の乱立状態から、「重い」科目が主流のカリキュラム編成が当たり前の状態に転換できるかもしれない。





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