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2018年6月14日 (木)

文明と歴史、そして病気(1)― ②

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 一見、奇怪なペスト医者の衣装は、イタリアだけでなく、パリやイギリスの古い絵にもあり、ヨーロッパ各
地の医者に用いられたようだ。見掛けはおどろどろしいが、それなりの医学的効果があったようだ。
 ディスポーザブルではないにしろ、全身を覆い尽くすガウンは、感染症防護服としては合理的である。細い棒で、感染した患者に直接触らずに脈を診た。異様なのは鳥のような仮面である。ハゲワシやコウノトリのように太くて長い嘴には香料やハーブを詰めたのだという。
 細菌の概念の無い当時は、伝染病は悪い空気や臭気によってもたらされると考えられていた。奇妙な鳥仮面は呼吸する空気の清浄装置だったのだ。香料やハーブは抗菌効果があり、その点でも多少は防護性があったように思われる。
 それでも、瀉血などの治療の最中に患者から伝染して亡くなった医師の記録も少なくない。圧倒的な数とスピードで迫ってくる死に対峙した時の、医療者の心意気をつい思いやってしまう。
 黒死病は、医学的を超えて、社会学的にも生物学的にも、人類の歴史を揺るがした大事件であった。社会不安は大きく、毒を井戸に入れたと、ユダヤ人へのホロコーストが起こり、ローマ教皇クレメンス6世が禁止令を出すほどだった。そして、流行が去ると、ヨーロッパ社会には犠牲者への鎮魂の雰囲気が漂った。
 ルネサンスもその流れであり、ミケランジュロのピエタやラファエロの聖母子像などのように、静謐で繊細な宗教美術が数多く生み出されていった。『ヴィーナスの誕生』や『春』などのアルカイックな作品で有名なボッティチェリも、たくさんの宗教画がある。
 鎮魂や健康への祈りは教会の建築にも及んだ、ヴェネツィアの波止場からグランド・カナルを隔てて臨む、サンタ・マリア・デル・サルーテ(健康の聖母)教会やレデントーレ(救世主)教会は、この島を襲ったペストの大流行のたびに、建てられたものだ。
 ヴェネツィア小島であり、そこに人々が密集して住んでいる。家々の間は狭く、路地は肩を触れずにはすれ違えないほどである。ゴンドラが通る運河の水は濁っており、澱んだ潟(ラグーザ)独特のヘドロの匂いがする。
 ゴンドラで巡ると、水が階段を浸している建物の裏手は泥がこびりついて汚れていて、ここにネズミの大集団がいたとしても、ちっとも驚かない。”竄疫”とは中国語でペストである。決して、ここは住むのに健康的な空間ではなく、昔の衛生状態が悪かったに違いない。
 当然、伝染病が蔓延し易い。ペスト大流行では瞬く間に人口が激減した。ヴェネツィア派の第一人者で、『ウルビーのヴィーナス』や『フローラ』などで知られる画家テッツィアーノも犠牲となっている。
 ヴェネツィアが浮かぶラグーザ(干潟)を船で巡ってみると、ガラス細工のムラノ島や、ヴェネツィア映画祭が行われるリノ島などは別として、多くの小島には葦が生い茂り、古い教会や修道院らしい建物がポツンポツンとあるだけ。
 本島がきらびやかにあるだけに、余計に物寂しく感じられる。これらの島の中には、ペストなどの疫病を隔離した場もあり、病人を葦の繁る小島に素早く追いやった名残である。
 かってヴェネツィアは海上貿易で栄えており、大きなガレオン船などが小アジアやエジプト、黒海からひっきりなしに訪れ、疫病もそれに乗ってやってきた。だから、14c.にアドリア海に臨むヴェネツィアの植民市が、本国に入港する前の船を10日間係留し、伝染病が発生しない事を確認していた。検疫制度の発祥である。
 10日はラテン語で quarantia giorni なので、検疫を quarantine というようになった。
 幸いペストの大流行は18c. 末を最後にヨーロッパではなくなった。19c. 末の香港での大流行で、北里柴三郎やエルシンらがペスト菌を発見し、ノミやネズミとの関係も台湾での流行で緒方正規が解明し、そして抗生物質によって、予防と治療が可能な病気となった。
 過去に大流行した黒死病が果たしてペストだったのかという議論もあった。南仏モンペリエの黒死病墓地から発掘された遺骸の臼歯の歯髄の検索では、ペスト菌と同じDNA配列が認められている。
 いまや、鳥仮面のペスト医者は現実味を失い、土産物屋のショー・ウィンドーを飾るだけになってしまった。が、そのことは、医学が感染症との長い戦いに勝利しつつある証なのだと意を強くしながら、ヴェネツィアを後にした。



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