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2018年7月 1日 (日)

文明と歴史、 そして病気(2)― ②

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 1527年、ドイツやスペインなどの傭兵からなる皇帝カール5世の軍隊が侵攻し、かっての蛮族襲来以来といわれるほどに、ローマを徹底的に破壊的にし尽くした。教皇クレメンス7世も生命の危険を感じ、カステル・サンタンジェロの要塞にかろうじて逃げ込んで助かっている。
 皇帝軍はローマに居座りかけたが、夏になると熱病が流行し、その年のうちに消滅してしまった。華やかなルネサンス時代の終わりを告げる”ローマ攻掠”という事件である。結局、この時も、”ローマの友達”がまさに味方となり、侵略者を追い払ったのだ。
 時は飛んで、第二次世界大戦中の1943年、連合軍は枢軸軍に対する反攻作戦を開始し、南イタリアに上陸した。この時も、”ローマの友達”は容赦なく襲いかかり、6000人のイギリス兵がマラリアに罹ったが、死者は3人だけだった。マラリア原虫への薬は用意され、蚊への殺虫剤も大量に散布されたのだ。
 マラリアはイタリア語で”mal aria”、悪い空気の意味である。この病気は紀元前の古代ローマ時代からの風土病であるが、すでに紀元75年に博物学者ヴァロは『農薬について』という本で書いている。
 「家屋敷の敷地内の沼沢の有無に気をつけなければいけない。沼沢には目に見えない小動物が発生し、大気中に飛散して人の鼻孔から体内に侵入し、重い病気を起こすのである」。
 古代ローマ時代には治水事業や水道の整備で、マラリアは大して流行しなかった。5c. 以降は蛮族の襲来のたびにインフラが破壊され、6c. にはローマ周辺は湿地に変わり、蚊とマラリアが蔓延した。
 590年の大流行で、神の加護を求める行列がテヴェレ川畔に差し掛かった時、ハドリアヌス帝廟の上に大天使ミハエルが現れ、剣を収めると疫病が去ったという。それで、この廟をカステロ・サンタンジェロ(大天使廟)と呼ぶようになった。―― 中世には病因論は神の祟りに戻ってしまっていた。
 1787年、教皇の侍医ジョバンニ・ランチシは論文『マラリアから発散する毒について』を書いた。原因は沼地の”悪い空気”ではなく、暑い夏に大量に発生する蚊が悪い毒を伝染していると考え、対策として湿地の干拓とテヴェレ川の排水を提案した。クレメンス13世以降の歴代の教皇がそれを実行し、マラリアの発生は減少していった。当時、教皇はローマを含む中部イタリアの領主でもあった。




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