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2018年9月 6日 (木)

文明と歴史、そして病気(4)― ③

続き:
 多くの人命を失いながら到達したモスクワは、ロシア側の焦土作戦で市内に火事が多発し、治安状態は悪く、食料などの物資も調達できず、居心地の良いオアシスではなかった。ナポレオンは、ここで冬ごもりか、引き返すかを悩んだ末、10月19日に約8万の兵員と5万人の随伴者とともにフランスに向かって出発した。
 おびただしい橇には戦利品が山と積まれ、帰還する者たちは半ばうきうきした気
分だったという。しかし、病院に置き去りにされた傷病兵も少なくなく、その後、悲惨な運命をたどった。
 このロシア軍も戦闘の度にナポレオン軍より多数の戦死者を出し、兵士の間に病気が蔓延した。が、自国内なので地の利があり、兵や糧食の補充は容易で、有利に迫激戦を展開していった。
 一方、ナポレオン軍は、すぐに食料が欠乏しはじめ、戦利品は足手まといになって捨てられた。再び病気も蔓延し、さらに”冬将軍”が追い討ちをかけてきた。病気の兵が死ぬと、別の兵がその服を着たが、シラミも移り、その兵もチフスに倒れた。
 11月下旬のベラジナ川では、冷たい濁流の中を工兵が橋を架け、28000人の兵士と30000人の随伴者が渡河できたが、20000人が戦死し、なお多くの人々が取り残され、捕虜となり、あるいは雪原の荒野に消えていった。
 結局、軍としてまとまった集団として戻れたのは数千人であり、後に三々五々戻って来た落伍者を含めて帰還者は40000人以下とされている。
 このように、19 c. 初頭の歴史の大きな転換点にあったのは、チフスという病気であった。それにしても、パリのアンバリッドにあるナポレオンの赤大理石の大きな墓石を見ると、”一将功なりて、万骨枯る”の思いを禁じ得ない。





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