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2018年9月 5日 (水)

文明と歴史、そして病気(4)― ②

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 6月28日ヴィルナ(現:リトアニアの首都)到着時には、さらに3万人と2万頭の馬が減っており、教会や修道院などに臨時病院はベッドも設備もなく、垂れ流し状態の兵士であふれた。
 イギリスのスパイは、大量の病死者で3万人と報告し、ロシア軍側にいた戦略家フォン・クラウゼビッツ中佐はグランダルミーが早晩消滅すると予想した。
 そこに、新たな病気が蔓延してきた。最初は軽い症状だが、高熱とひどい頭痛、全身の筋肉痛で、がちがちと歯を鳴らすほどに震えて憔悴し、無気力になった。無気力のギリシャ語 typhus から、その病気はチフスと呼ばれる。
 体幹に斑点が現れ、四肢に広がり、軍医たちは為す術もなく、10日くらいで患者は死亡した。以前より不衛生な集団に発生し、ハンガリー熱、飢餓熱、あるいは戦争熱ともいわれていた。
 ナポレオンは、さらに東へ進軍して、7月26日、ニーメン川から 400km 進んだ地点で、初めてロシア軍と交戦して打ち破った。戦死者は7000名だったが、兵力は25万人に減っていた。兵士たちは病気と飢餓で恐怖に駆られ、自殺者もあいついだ。
 病気で落伍した兵士は、ロシアの農奴に嬲り殺しにされかねなかった。将軍たちは撤退を勧め、ナポレオンも同意したが、一風呂浴びて心変わりし、生まれたままの姿でモスクワ進軍を号令した。
 そして、野戦病院で軍医長に当たり散らしたが、衛生資材の補給がないと抗弁されると、憮然として出て行った。モスクワまで480km の道のりである。
 その後、有名なスモレンスクの攻防戦やボロジノの会戦で、夫々7000人、12000人の戦死者を出しながらも、9月14日にはモスクワに到達したのだ。
 しかし、戦闘員は10万人に減少しており、ロシア侵入時から35万人の喪失であり、戦死より病死がはるかに多かった。
 赤痢では約8万人が死亡した。チフスはもっと多かったが、原因も治療法も分からない。兵士が飲むブランディの変質が疑われていた。確かに、この病気の初期症状は似ていたが。
 ドゥ・カークホープという軍医は、ポーランドの貧しい家屋にシラミがうようよいたことを覚えていた。兵士たちが身体を寄せ合って暖をとる時、戦友同士の一体感と同時にシラミも分かち合うことになる。
 将校にチフスの少ないのは、一人で眠るのでシラミが移らないのだと考察した。そこで彼は、せめて病院ではチフス患者を隔離しようとしたが、病兵が増え続けて対応しきれず、十分な防疫体制をとれなかった。
 シラミによる発疹チフス媒介は 20 c. になってからニコルによって明らかにされ、1928年にノーベル賞を授与された。病原体はリケッツィア・プロワザエキで、潜伏期は7日から2週間であり、時間的経過からポーランド国内での感染を強く示唆している。





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