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2019年1月23日 (水)

Clinical その痛みの原因は? ⑤

続き:

 ● 症例5 44歳、 女性

    紹介理由 : 原因不明の疼痛

    主   訴 : 上顎右側臼歯部の拍動性疼痛

    現 病 歴: 半年前から右側の上下どちらかは分からないが一過性の痛みを認めていた。2週間前から右の奥に冷水痛を認めるため紹介元を受診。特に異常はないと診断された。3日前、右上の奥歯に熱いものに対して激しい痛みを認めた。紹介元を再度受診し投薬されたが痛みはさらに増大し、原因不明であるため紹介来院。

    医科的・歯科的既往歴 : 特記事項なし

    診   断 : 下顎右側智歯急性化膿性歯髄炎

 症例5は歯痛錯誤、亀裂による歯髄炎打診反応を認めない歯髄炎という診断を惑わせるファクターが複合的に重なった症例である。まず患者の上顎の奥歯が痛いという訴えにより「上顎臼歯部の疾患」という投錨効果が生じるが、上顎臼歯部に対する診査を行っても病的所見は認められないため診断が混乱する。

 また下顎の診査をやっても、視診やX線検査で原因歯を特定するのが難しく、原因は歯では無いだろうという非歯原性歯痛に対する投錨効果(アンカーリング・バイアス)も生じてしまう。さらに口腔内診査でいずれの歯にも打診反応を認めないため、強烈な痛みが生じる歯原性歯痛であれば打診反応を認めるというルール・バイアスも影響し、非歯原性歯痛に対する投錨効果がより強くなる。

 そして、これらの非歯原性歯痛に対するバイアスにより、冷刺激から温刺激で痛みが強くなったという歯髄炎の典型的進行パターンの情報も確証バイアス(コンファーメーションバイアス)により不必要な情報となる。さらに原因歯が特定できずに不可逆的処置を行い、症状に変化がない場合を想定したハッスル・バイアスも働くと診断は一層困難となる。

 組織に損傷が生じた場合、その部位に痛みを感じるが、歯痛錯誤は痛みの原因とは離れた部位に痛みを感じる。歯科における口腔顔面領域の知覚のほとんどは三叉神経に支配されている。三叉神経は中枢に向かうと一つの束になるが、末梢では3本枝分かれし各々全く異なる場所に分布する神経である。

 通常、脳ではどこの枝分かれした神経からの信号かを判別している。しかし、痛みの強い時には神経が混乱をきたし、原因とは離れた部位に痛みを感じるというのが歯痛錯誤のおおまかなメカニズムであるが、詳細なメカニズムについては、いまだいくつかの説がある。

 また臨床において下顎が痛いと来院したが、歯痛錯誤を疑って上顎の診査を行うと「痛いのは下です」と再度訴える患者もいる。このような場合は、患者に対して歯痛錯誤に対する十分な説明を行ってから審査・処置に入ることが大切なことである。

 亀裂・破折(クラック)は生活歯や治療が施されていない歯でも生じるが、歯冠部を含め明らかな実質欠損を認めないため、特発性歯痛や不定愁訴と診断されてしまうことがある。亀裂は加齢とともに存在率が増加し、50歳以降では生活歯・失活歯を問わずほぼすべての歯に亀裂が認められ、進行すると歯髄病変が生じる可能性も指摘されている。なお亀裂・破折は下顎大臼歯に出現する頻度が高いとされ、筆者(内田)も亀裂症例は下顎大臼歯を多く経験している。

 症例5は、初診当日の急性症状が強かったため麻酔抜髄処置を行い、痛みの消退を確認後、後日抜歯を行った。抜去後の歯をマイクロCTにて確認すると、今回視診で確認できた遠心部の亀裂の他に、近心部にも歯髄に近接した亀裂を認め、下顎大臼歯で歯冠部の亀裂ができる頻度の高さが疑われた。

 なお亀裂が歯冠の辺縁隆線を越えて存在する場合は、マイクロスコープを用いることで、より早期に亀裂を診断することができる。しかし亀裂の進行具合を診断することは臨床上困難なことが多く、処置に当たっては患者の訴え、現症、検査所見を含めた十分な分析が必要である。

 症例を通して診断時における認知バイアスの関わりを解説したが、これに加え臨床の現場では、自分が楽に処理できる方向へ診断が偏りがちになったり、視覚情報で病的所見を認めない歯に対する不可逆的処置(歯の切削等)は極力避けたいと考えるハッスル・バイアスが働く。

 また臨床経験が長くなればなるほど自分の直感的思考に対するオーバーコンフィデンス・バイアス(過信)も出る。さらに忙しい臨床において特に時間的制約(タイムプレッシャー)があると、直感的思考の判断を分析的思考が修正できず、混乱して間違いを犯したり安易な結論を導きやすくなる。

 他にも講習会受講後や文献を読んだ後は、アバイラビリティ・バイアス(有効性バイアス)によりその知識を使いやすくなる。「一度、新しい症例を経験すると、同じ症例が続く経験」をしたことがないだろうか。

 見覚え、聞き覚えのあることは認知しやすく、思考に費やす労力を節約できるため、有効性バイアスにより診断が歪められる可能性が高いなど、臨床では常に認知バイアスが思考に影響を及ぼしている。

 触覚精密機能検査の保険収載等により非歯原性歯痛に対する認知度が上がり、多くの歯科医師の理解を得られることは喜ばしいことであるが、同時に聞き覚えがあることに対する有効性バイアス)によりにより歯原性歯痛を非歯原性歯痛と誤信する診断エラーの増加も危惧される。

 また別の認知バイアスとして、各々の症例について結果だけをみて結局いつも歯原性歯痛だったと安易に考えてしまうことがある。これは後智慧バイアスといい、しばしば引き合いに出されるのが「コロンブスの卵」である。診断が下るまでの経過を無視して、後から結果が容易に見えることのみに基づいて評価してしまうことであり、臨床での経験が以降に活かされなくなってしまう。 






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