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2019年3月11日 (月)

事件は公開の裁判へ

続き:細野祐二さんお文章を載せる。コピー・ペー。
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 2019年の年が明け、1月11日、ゴーン元会長の特別背任による勾留満期がやってきた。この日、検察官は、ゴーン元会長を会社法の特別背任罪で起訴し、弁護側は東京地裁にゴーン元会長の保釈を申請した。この年は1月12日~14日迄が成人の日を含む連休となり、連休明けの1月15日、東京地裁はゴーン元会長の保釈申請を却下した。
 ゴーン元会長に罪証隠滅の恐れは皆無である。なぜなら、ゴーン元会長が罪証隠滅のために用いることのできる証拠資料や人的関係は全て日産自動車側の内部資料と人間関係であり、それらは日産自動車側との司法取引により、全て特捜検察の管理下にあるからである。
 ゴーン氏には罪証隠滅の恐れがなく、何よりそもそも逮捕事由がない。であればこそ、特捜検察はゴーン元会長の保釈だけはどうしても呑むことができない。ここでゴーン元会長が身柄を解放されれば、ゴーン元会長の社会的発信力が炸裂し、世論は一気にゴーン元会長無罪論に傾いてしまう可能性がある。
 2008年7月の長銀粉飾決算事件の逆転無罪、及び、2011年8月の日債銀粉飾決算事件の逆転無罪判決がそうであったように、日本の裁判も、結局のところは世論に弱いのである。
 ゴーン元会長の長期身柄拘束に対しては、海外から人権無視の人質司法として強い批判があった。これを受けて、東京地方裁判所も一度は検察官の拘留延長を却下し、ゴーン元会長は保釈寸前まで行きそうになった。
 裁判所は、海外からの人質司法批判を避けたいよいう思いはあるだろう。しかし、かといって、著名外国人だからということで保釈を認めれば、いままで検察官の求めるままに長期勾留を許してきた過去の歴史との辻褄が合わない。
 ゴーン元会長の保釈申請は、悩み深き日本の司法制度の宿痾を背負って、際どく却下されたと考えるべきであろう。
 こうして、日産自動車のカルロス・ゴーン事件は公判で裁かれることになった。本件の公判前整理手続きには6カ月程度を要すると予想されるため、おそらく初回公判は2019年夏頃となるであろう。ゴーン元会長の保釈申請が初回公判以前に認められる可能性はほぼなくなった。東京拘置所の冬は寒い。ゴーン元会長は、少なくともあと半年は東京拘置所から出ることはできない。→筆者(細野)は、原稿を1月に書いていたであろう。
 普通、特捜検察が逮捕して叩けば、どんな人でも自白調書に署名する。インテリほど理詰めの恫喝に弱い。否認して無実を裁判で争ってみても、日本の刑事裁判における起訴有罪率は99.9%なのである。ならば、保釈や執行猶予と引き換えに嘘の自白調書に署名したが良いと、誰でもそう思う。しかし、ゴーン元会長は受験エリート型のひ弱なインテリではない。特捜検察がどのような威嚇的強要を行なおうが、ゴーン元会長が自白調書に署名することはなかったし、今後の長い起訴後勾留においても、その姿勢が変わることはないであろう。
 ゴーン元会長の本件起訴事実に対する弁護方針は明解である。特捜検察との全面対決だ。ゴーン元会長は、有価証券報告書虚偽記載と特別背任の犯罪事実そのものを全面的に争うことになる。
 本件の有価証券報告書虚偽記載罪及び特別背任罪は、ともに、ゴーン会長に故意が認定できなければ不成立だ。これらの経済事件は過失犯を対象とはしないからである。ならば、ゴーン元会長には犯罪事実を認めて故意だけを争うという選択もある。→保釈はすぐ出る。   筆者(細野)の原稿は1月に書く。
 だから、ほとんどの経済事件の被告人はそうするが、ゴーン元会長はそうしないであろう。ゴーン元会長が自分の無実を確信していることは当然のこととして、日本の刑事裁判では、故意を争うだけでは特捜検察に勝てないからである。日本の経済事件で被告人が無罪判決を得ることができるのは、犯罪事実そのものを争う場合に限られている。
 2018年11月19日の逮捕当初のマスコミ報道は、ゴーン元会長の有罪を当然の前提とする報道一色だった。2018年12月20日の拘留延長却下あたりから、特捜検察の捜査に対する批判報道が少しずつ出るようになった。
 2019年1月8日の拘留理由開示でゴーン元会長が無実を強く訴える陳述を行ったころには、ゴーン元会長無罪論が少なからずマスコミ論調を賑わしている。
 海外メディアの批判を受けて、日本のマスコミ世論も少なからず変遷したのである。日本社会は、今も昔も外圧に弱い。すなわち、特捜検察は、本件を、「国民の圧倒的な支持の下で巨悪を摘発する」とする特捜検察の必勝構造に持ちこめていない。ゴーン元会長に無罪判決が出る可能性は十分にあると思う。
 一方、特捜検察にとってこの裁判に負けるわけにはいかない。もとより特捜検察は、2010年秋の厚労省村木厚子元局長の無罪判決とそれに引続く大阪地検特捜部の証拠改竄事件を受けて、解体寸前だったのである。あの時、特捜検察は、事件を大阪地検特捜部内における特殊かつ局所的な問題に矮小化し、大坪弘道元大阪地検特捜部長、佐賀元明元大阪地検特捜副部長、前田恒彦元大阪地検特捜部主任検事の3名に詰め腹を切らせることにより、なんとか生き延びることができた。
 日産自動車カルロス・ゴーン事件はその「執行猶予中」の立件なのである。この裁判でゴーン元会長に無罪が出れば、特捜検察は、今度こそ本当に解体となるであろう。
 本稿で検討したように、特捜検察は、日産自動車現執行部の提供する内部情報と証言以外には証拠がない。現時点で明らかとなっている客観的事実関係だけからすると、事件は弁護側に有利なように見えるが、だからといって、検察側が不利とは言えないのが日本の刑事裁判の悲しい所で、これでも日本の裁判では有罪判決が普通に出ることになっている。
 なぜなら、検察官は、すでに、司法取引対象者を含む日産側関係者の検面調査を大量に取っており、その検面調査では、ゴーン元会長の本件有価証券報告書虚偽記載と特別背任を裏付ける第3者供述がテンコ盛りで記載されているに違いないからである。
 特捜検察による検面調査に絶対の信用性を認める日本の裁判実務のもとで、裁判官が、これだけ大量の検面調査を否定して無罪判決を書くのは至難の業なのである。
 日産自動車カルロス・ゴーン事件の裁判の帰趨は、検察官と弁護人の有利不利がほぼ拮抗しているというのが実情で、やってみなければ何とも分からない。検察官と弁護人の力量が裁判の帰趨を大きく左右することになるが、私(細野)は、この裁判の帰趨を決定するのは結局国民世論だと思う。
 ゴーン元会長が無罪判決を取るためには、弁護側が、客観証拠により検面調査の信用性を崩すしかないが、それは本件無罪判決の必要条件ではあっても十分条件ではない。
 無罪判決が出るためには、さらにもう一歩踏み込んで、裁判官に検面調査より客観証拠を重視させなければならない。この事件で、厚労省村木事件における大阪地裁横田裁判長のような「客観証拠を重視する裁判官の出現」などという僥倖を期待することはできない。
 そのためには、弁護側は、本件の冤罪構造を法廷で明らかにしなければならない。そして、特捜検察の冤罪構造が公開の裁判により明らかにされ、国民の激昂を誘った時、その強い国民世論を背景として、初めて、裁判官は安心して無罪判決を出すことができる。厚労省村木元局長事件においては、これら必要条件と十分条件の全てが揃ったからこそ、当然のことのように無罪判決が出たし、それに対して検察官は控訴できなかった。
 日本社会は、2010年の大阪地検特捜部証拠改竄事件により特捜検察の冤罪構造を知りながら、自国民の力ではこれを矯正することができなかった。今また8年の年月を経て日産ゴーン事件が勃発したが、期せずして、この事件の国際世論の監視の下で裁判が開かれる。今に生きる我々日本人は、歴史の証人として本件の決着を見届けなければならないのだ。





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