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2019年4月16日 (火)

遺体科学の挑戦 (5)―②

続き:

                       

 

 連載の最後に、遺体科学の闘いぶりを一つ二つ示しておきたい。遺体科学は研究に使った死体を消費されるものとは考えない。可能な限り、それを未来の世代に継承し、社会の文化的基礎に位置付けていくのである。「博物館」は今日的には際立った特性をもっている。それは標本として、研究対象を未来に残すことである。

 博物館は、資料を人類共通の知の宝として受け継いでいく。けっして標本を捨てることはない。いつまでも博物館に残し、沢山の学者の研究に利用してもらい、すべての人々に公開していく。正しくこれが人間を人間たらしめ、文化を文化として育む本質的営みであることは理解されるだろう。研究が終わったら、石器を土器を文書をそして死体を廃棄してしまったら、人間の知は発展しない。倫理の実体を保存し続けてこそ、知は成立する。

 遺体科学は、正に博物館の価値観をもって、死体を標本として次世代へ受け継ぐ。具体的には、骨、剥製、液浸標本などとして、滅失しない形で保管を図る。

 少し前だが、博物館から見れば失笑を買う管理が大学で行われたことがある。研究不正が社会問題として登場してきた際、研究結果が捏造ではないことを証明するために、研究に用いた対象を「5年間保存しておくように」という通達が出たのである。

 「えっ、5年経ったら捨ててしまうの?世の中の研究者は」という、笑い話である。

 博物館人は、当然、標本を未来永劫に保管する。恒久収載は学者として生きる者の誇りなのだ。どうやら世の合理主義は研究対象を廃棄することを率先してやらかすらしい。民間企業が使わない本や機器をすぐに捨てると聞くが、合理性がぶれした大学は、次から次へと知の源泉をゴミにしてしまう。そんな風潮と遺体科学は対決する。

 知の源泉は全人類が永久に持ち続けていかなければならないのである。どうやら世の中は、研究上のうそつきを摘発しているという市場原理的なアリバイづくりのためだけに、5年間資料を残せばそれでよいらしいのだ。遺体科学は標本の永久収載を掲げてこの後も闘っていかなければならない。

                       

 

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