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2019年4月15日 (月)

遺体科学の挑戦 (5)―①

「人間と科学 第298回 遠藤 秀紀(東京大学総合研究博物館教授)さんの小論文を載せる。コピー・ペー:

                       

 かって我々はもう少し、「死」を、日常の暮らしの流れの中で感じていたと思う。街のおじいちゃん おばあちゃんは、若いころ暮らした家で、家族に囲まれて死を迎えていたはずである。東京大空襲でも広島長崎でも、黒焦げの死体が戦争ドキュメンタリーとして TV. で普通に放送されていた。田舎では農家の軒先で、頸から放血されるニワトリを見る機会があった。

 今やそれらのすべたが壁の向こうに隠されてしまう。放送コードや表現規範の形をとって、我々は死や死体を別の空間に追いやってしまい、命を表層的にしか受け止められなくなったと感じるのである。

 たまたま、遠藤の研究室には山ほどの死体があふれ、終焉を迎えた「命」を感じる機会が多い。学ぶ大学院生は、生死の境界面を日常のものとして受けとめている。こうした遺体科学は、牛肉豚肉鶏肉が工業製品のように売られ、戦争報道がコンピューターゲーム化し、老人の死さえも家庭から消え去った現代を、歪なものとして感じる感性を保持しているといえるだろう。

 死体が身近にあるゆえに死を直視することができ、反面、生の美しさも醜さもより感性豊かに受け止めることができる。死体集めに没頭していた遠藤らは、死も生も穏当に受容しきれなくなった社会を、時に冷静に見つめることができるようになっていると感じられる。

 遺体科学は確かにサイエンスなのだが、同時に、現代の生命観や死生観を深く語る場にふさわしいと感じる。この学問の意義はただの解剖学に止まってはいないのだ。  

                       

 

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