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2019年5月 4日 (土)

■ 感染症と人間 (1)―①

「人間と科学」第299回 山本太郎(長崎大学熱帯医学研究所環境医学部門国際保健学分野教授)さんの医学小論を上載する。コピー・ペーする。

 

 母方の祖母が亡くなったのは、1980/10/25。わたし(山本)が高校2年生の時のことだった。夏に入って入院し手術を受けた。しかし症状は快方に向かうことなく、祖母は秋に亡くなった。入院から死亡まで1カ月半程。その間に彼女は、当時、山本が暮らしていた町の小さな医院で一度、そこから電車で1時間ほどのところにある街の病院で一度、合計二度の手術を受けた。

 「盲腸だな。手術が必要だが、1週間ほどで、退院できる」と祖母が入院した院長は言った。入道雲が瀬戸内海の向こうに立ち上がる夏の暑い日だった。鉄製のベッドが四つ置かれたその部屋には、祖母を除けば、他に入院患者とていなかった。

 「ここはもういいから、お帰り」

 自ら、小さな着替えの入った風呂敷包みを整理しながら「忙しいのに、悪いね」と祖母は言った。入院の日、彼女に付き添って医院へ行ったから、その言葉をよく覚えている。その言葉に、山本は病室を後にした。祖母に一つ謝りたいことがあったのに、それを口にすることもなくだ。

 小さい頃、山本は、この祖母のもとで育った。

 山本が生まれた頃の両親は、若く、貧しく、知り合いもない都会で共働きしながら生きていた。二人の勤務には、当時夜勤もあった。

 母はわたし(山本)の後に2人の妹を産んだ。父が夜勤の日、1人で3人の子どもの面倒をみた。雨が降ると、傘を片手に、合羽を着せた。1番年長のわたし(山本)の手を引き、2人の妹を背中と胸に、保育園からの夜道を家路へ急いだ。母が夜勤の日には、父がそうした。ずぶ濡れになり、冷たくなったわたし(山本)は翌朝になると必ず熱を出した。「大変だったわね」と、母が後に語ったことがある。

 そんななかでも、二人を支えたのは「まじめに生きて行けば、一生懸命働けば、明日の生活は今日よりよくなる」という信念にも近い思いだったという。それは二人だけでなく、昭和30年代、40年代を通じて、当時の日本社会が全体として共有していた、時代の通奏低音のような心象風景だったのかもしれない。

 それでも、そんな二人が働きながら、都会で3人の子どもを育てることには限界があった。それから小学校2年生に上がるまでの4年間をわたし(山本)は、母方の祖父母の家がある海辺の小さな田舎町で過ごした。

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