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2019年8月 8日 (木)

「トランプ・ドクトリン」はあるのか ②

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 その結果、トランプ政権の外交に一貫性はなく、あるのはトランプのその時々の「衝動」だけだ、という考え方で片付けてしまいがちだ。実際、そう考えるのは米国外の分析者だけではない。ネオコン(新保守主義者)の有力な論客マックス・ブートは「トランプ外交には意味もなければ、合理性もない。トランプ・ドクトリンというのは単に、トランプがやりたい放題やることだ」と、そこに意味を見ることを放棄している(事件前の5月16日付ワシントン・ポスト紙への寄稿)。

 ブートは「トランプ絶対拒否派(ネバー・トランプ)」である。多くのネオコンは同様の立場であり、2016年大統領選時から、トランプをほぼ全面的に拒み続けてきた。トランプがアフガニスタン・イラク戦争だけでなく、民主化拡大路線などネオコン外交を徹底的に否定し続けているからだ。だが、それ以上にトランプが「アメリカ・ファースト(米国が第一)」を掲げ続けていることは、ユダヤ系知識人を中核とするネオコンらには、許しがたく映っているはずだ。

 「米国が第一」は第二次世界大戦への参戦を拒んだ飛行家リンドバーグら孤立主義者の組織が掲げた標語であり、彼らの中には反ユダヤ主義でナチスとつながる者もいたからだ。「米国が第一」は長く政治的には「危険な言葉」と見なされていた。

 そうした事情で、ブートのようなネオコン系の言説には強い反トランプ感情から来る、やや行き過ぎた拒否感がある。これはネオコンと水脈がつながるリベラル・ホーク(進歩主義タカ派)においても同様だ。ただ、彼らの言説は米国メディア界で圧倒的なほど浸透力が強い。

 それは、そのまま世界に伝わっていくから、われわれがトランプ外交は「わけが分からない」というとき、知らずに彼らの言説をなぞっていることが多い。

 そこで、果たして「トランプ・ドクトリンはないのか」とあらためて問うてみるべきだろう。すくなくともトランプの「衝動」のように見える外交・安保の政策を通底するものはないのか。考えてみるべきだ。トランプと対立することが多いように見えるボルトンやポンペオの役割や位置付けは何なのか、探ってみる価値もありそうだ。

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