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2019年8月 2日 (金)

私の「大学自治論」――<2>

続き:

 

     私立大学と思想の自由

 大学は研究と教育で成り立っている。私立大学はさらにそこに、法人の思想と価値観が加わる。キリスト教系、仏教系の大学があっても違法ではなく、大学の多様性のひとつであることは、誰もが理解している。宗教が背後にあるから国費である補助金や研究費を渡すなとは、誰も言わない。大学内でも宗教を学ぶか学ばないかは自由である。成り立ちの個性と思想の自由は、大学では両立している。

 また大学教育は、研究によって支えられている。今日の世の中は、自らの育った環境や価値観で馴染んでいるものとは異なる人や現象で満ちていて、一筋縄ではいかない。誰もが、起こっている出来事を観察し、それらを論理的に理解し、新たな知識を導入しながら言葉で判断する、という道筋をたどることがなければたちまち混乱する。その道筋こそが研究のプロセスなのである。

 観察、記録、論理の組み立て、読書や資料の読み込みによる知識の獲得、数字や言語よる表現など、理系でも文系でも共通して必要な過程を通常より集中的に長い時間実践してきた人々が研究者である。さらに言えば、研究とは、「学問」であり、学問とは人間と社会にとっての価値を考えつくすことであった。そのことの重要性はいまだ変わらない。

 日本私立大学連盟の提言『未来を先導する私立大学の将来像』(2018年4月)では、大学が育成すべき能力を第一に「人間としてのあり方を常に問う主体的で洞察力に富んだ思考力」とした。思考には時間をかけた洞察も必須であり、それは学問する能力と言い換えてもよい。

 

     「実務家教員」をめぐって

 しかしながら一方、ビジネス界に多くの卒業生を送り出す私立大学は、学生と社会との接点を広くするために、企業や銀行や行政などで働いている人々を教員としても迎えてきた。その方々は経験してきたことを客観的事例として分析し、その意味を問い、論理的に語り、研究成果や著書の刊行や社会的発言として形にしてきた方々である。その教員たちを、他の教員と区別して「実務家教員」と呼ぶことはなかった。

 ところが文科省の中央教育審議会が2018/11/26、付けで出した『2040年に向けた高等教育のグランドデザイン』では、たびたび「実務家教員」について言及している。既に多くの業務経験者が大学教員になっているにもかかわらず執拗なまでに実務家教員に言及する狙いがどこにあるのか不明だ。

 大切なのは、すでに同僚となっている業務経験のある教師たちの良い点を言語化し、学生のためになる企業経験者とはいかなる能力を持った人なのかを明確にしておくことであろう。そうでないと、実務家教員圧力によって、数合わせの雇用をすることになる。

 このように、中央教育審議会のグランドデザインは、大学の人事と大学のガバナンスに言及している。その意見をどう受け止め、自らの大学の人事とガバナンスの考え方を主張していくか、自治の力を問われている。

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