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2019年8月 1日 (木)

私の「大学自治論」――<1>

 著者 田中優子(法政大学総長)さんは、『世界 5』に「大学とは譲れない自由の領域を探り、自由を生き続けるところ」と、  コピー・ペー:

 

    自治とは何か――江戸時代から考える

 江戸時代と向き合っていると、「自治とは何か」について常に考える。江戸時代の村と町には村長や町長がいない。江戸にも知事がいない。では誰が治めているのかというと、村は村人である名主(庄屋)、百姓代、組頭などという(地方によって名称は異なる)三人の代表がいて、寄り合いで決めたことを藩や代官と交渉する。

 町は、江戸を例にとると町人である町年寄がやはり三人いて、治める領域がそれぞれ決まっている町名主と共に行政活動を行っている。町年寄は武士である町奉行と交渉、連絡の関係をもつが、幕臣が直接江戸を管理しているわけではない。自治を担う名主は藩や幕府の要請を受け入れないこともある。

 現在の千葉県にある佐原村の名主だった伊能忠敬は、幕府老中から要請された河岸問屋組合の結成と運上金の支払いを拒否し続け、いよいよ迫られると自ら運上金を支払い、流通業者の自由営業を守ったという。村や家に残された記録を使って交渉に当たった経験が、後の測量記録の正確さと粘り強さ、そして他者とともに目標を掲げて達成する行動につながった。

 他方、自治をあずけている名主が頼りにならないとき、人々は具体的要求項目を掲げて一揆を起こす。一揆は自らが決めた手順に従って粛々とおこなうもので、一揆という行動も、その手順もルールも自治の一種である。

 幕府と藩の関係においても、各藩は藩札発行権をはじめ経済、産業、各種管理が幕府から独立しており、幕府は自由に各大名を制御できるわけではない。近代国家による統制がなかった時代、「自治」という概念は無いわけだが、自由という実態はあった。その自治能力を育成する機会が、祭の実施に至るプロセスだった。

 自治とはどんな場合も、全く干渉されない完全な独立自由のことではない。より大きな組織に依存し、組織によって治められることを受け入れる一方で、譲れない自由の領域を探り、自由を生き続けることである。

 

     藩校・私塾から近代の大学へ

 

 法政大学は、私(田中)が総長となった2014年度後半に長期ビジョンの策定に取り掛かり、2015年度の教職員によるブランディング・プロセスを経て、初めて大学憲章「自由を生き抜く実践知」を作り、2016/04/01、に発表した。その際、「大学憲章の趣旨」を前文としてつけた。そこでは、大学進学者の7割強を教育する日本の私立大学は重要な責任を担っているが、政府や社会は私立大学に対し、教育の内容と質についてさまざまな要請をする時代となったことを述べ、その状況下で、「外部からの要請をただ退けることも、またそれにとらわれることもなく、また内部における矛盾から目をそむけることもなく」

 法政大学が「その原点と方向性を見失わず」に社会的責任を果たしていくために、大学憲章を制定することにした、 と述べた。

 外部からの要請を無視することもはねのけることも自治ではない。法政大学は日本の学校教育法によって規定された「大学」の定義に沿って存在する大学でいられる。大学の設置基準を満たして運営され、認証評価機関の評価を受けて継続している。

 私立大学は経常費のわずか9%程度ではあるが、国の補助金も受けている。補助金を獲得するために数々の煩雑さがあるが、受け取らなければ授業料は跳ね上がる。だからといって国の政策に従うのではない。

 日本の私立大学はそれぞれ成立の経緯と歴史をもっており、固有の存在理由がある。法政大学の前身は、1880年に開かれたが、創始者は江戸時代の藩校と私塾で教育を受けた20代の若者たちであった。そのころ日本全国に国会の開設と憲法の制定を求める結社が2000以上あった。そのひとつが後に大学になったのである。

 

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