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2019年9月 4日 (水)

自己撞着化する監視社会 ⑤

続き:

 

不安定な自己と一時の共同体<2>

 しかし、そうした社会は個人から安心感を奪い去る社会でもある。個人の選択肢の増大は、同時に他者の選択肢の増大でもあり、個人間の「横の関係性」はこれまで以上に自由な交換の過程に依存してしまうからだ。個人の選択が妥当であるかどうかを決めるために規範の助けを借りることはもはやできない。

 それはあくまで他者の承認によって判断されることになる。もはや何が良く何が悪いという基準は不明瞭となり、また一端他者の承認を得られたとしても、すぐにその承認は解除されてしまうかもしれない。制度や役割あるいは規範の保障を得られないなかで、雇用や愛を維持したいのならば、その都度の承認を得るために他者と交渉し、自己の意義を証明し続けなければならない。

 そのために、後期近代社会を生きる人びとは、常に不安定な自己を保持し続けることになる。

 急速に拡大する監視は、こうした後期近代社会における不安感と関連性をもつ。あらゆるものが流動的な社会においては、不透明な自己や他者に見通しをつけるための技術には、注目が集まるからだ。人びとは出来る限り、これは確実だと言える事実や証拠を常に捜し求めている。

 監視技術による詳細な情報の取得やはっきりとした映像の提示は、こうした事実や証拠を挙げるために有効な手段のひとつであるかのように思えるだろう。

 又、だからこそ監視の対象の中でも、特に誰もが非難できるような逸脱行動や不適切な発言には、人びとの関心が過剰に集中する。逸脱に対する糾弾は個人にとってみれば、他者との差異を一時的に解消できるかっこうの素材であり、いわば敵視を媒介とした想像の共同体に参加することを意味するから。

 監視カメラがとらえた逸脱者の映像や、SNS上の何気ない一言が苛烈な非難の対象として取り上げられる現象を、実際に私たちは確認している。こうした分析は古典的でもあるが、後期近代社会論と監視技術の急速拡大に支えられて成立した新たなスケープゴート論と捉えることもできる。

 ただし、一時的な共同体論は、社会的な流動性の増大が敵視を解体させる作用にも言及する。基準のない社会は、何が悪いということに関しても、明確な解答をあたえない。一度はある対象が敵視の共同体に取り囲まれることはあっても、その非難が変質するほど繰り返されたとき、あるいはそれに違和感を覚える人びとが議論に参加したときに、こうした共同体は霧散することがある。むしろ、差異が拡大し続ける後期近代社会においては、そもそもこうした共同体は維持的にしか成立できず、その都度の社会的な関心にあわせて次~次へと非難の対象を変えていくものでしかない。

 すなわち、現代における監視はある意味で特定の対象や目的を持たない。個人間の横の関係性から希求される日常の監視、また瞬発的に発生する集中的な監視は、社会的な流動性の産物であり、不安解消できるのならば対象は何でもよく、またそれは次々に入れ替わることが想定されるからだ。

 その規制の中に現れるのは、権力に呼応・対抗するような公的な個人ではなく、感情的に行動する私的な個人による不安感が現代における監視の拡大を駆動させている。

 

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