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2019年9月 3日 (火)

自己撞着化する監視社会 ④

続き:

 

不安定な自己と一時の共同体 <1>

 これまでに検討してきた3つの権力の類型論は、権力をいかに捉えるかという論点に関しては確かに差異が有る。だが、その論理の基本的な枠組みに目を向ければ、むしろ明らかになるのは共通性の方だ。――これらはいわゆる社会―個人モデルに基づいて監視を説明しているからだ。国と市民、規範と主体、データベースと個人という対比が表すように、いずれの分析も等しく、広範な人びとに影響を及ぼす構造と、それに呼応・対抗する役割を与えられた行為体(agent)とを、枠組みの前提としている。それは社会と個人からなる社会学の基礎的な枠組みと同じであり、包括的・抽象的な体系としての構造が上に、その影響を受ける行為体が下に位置する「縦の関係性」に依拠した分析だったと見做すことが出来る。

 こうした分析は、確かに複数の権力の機制を明らかにしており、私たちはそれらを組み合せることで、現代の監視を巡る状況を重層的に把握するという展望を持つことができた。だが、この分析はこの縦の関係性から外れた機制については、あまり多くを語ることができない。

 これに対して、カナダやヨーロッパの監視社会論では、「社会的層化論」(情報監視の拡大が人種をはじめとする差別とそれに基づく社会的分断をより強固にするという議論)や、監視に対する多様な抵抗活動や日常実践などが大いに取り上げられる。しかし、日本の監視社会論は、そうした論点はさほど目を向けず、むしろ監視の拡大を社会的な流動性の増大という現代社会論を交差させながら、人びとの同質的な集合行動を検討することに一定の関心を寄せてきた。

 こうした集合行動論の代表例が、Z・バウマンの「一時的な共同体論」だ。その要旨は、社会的な流動性の増大によって人びとの安心感が損われ、結果として監視が拡大してしまうというものだ。

 一時的な共同体論の言う「社会的な流動性の増大」とは、例えば、任期制雇用や裁量労働制、あるいは離婚率の上昇や同性結婚がそれにあたる。こにように、従来はもう少し固定的だと信じられてきた労働や家族という基本的な社会的制度や役割が、あくまで個人が望む限りで存続するものだということが近年はますます明瞭になっている。

 他の社会的制度や役割も同様だ。個人が望む生のあり方を実現するために規範の変更を求める多様な異義は、あらゆるところで申し立てられており、それにより人びととはみずからの人生の選択肢の幅を大きく拡大させている。私たちが生きる「後期近代社会」とは、社会的な流動性の増大を加速させた社会。

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