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2019年9月 1日 (日)

自己撞着化する監視社会 ②

続き:

 

監視社会と二つの権力の類型論

 監視社会という言葉は、2000年前後から社会的な関心を集めるようになった。こう書くと、違和感を覚える人がいるかもしれない。時の権力による人びとの監視は、歴史において何度も繰り返されており、近代社会の成立も国家による国民の監視と不即不離だと社会史の研究は指摘してきた。

 だが、監視社会という言葉は、二つの理由でそれ以前の監視とは異なる意味を持つ。まず、この言葉を広めたD・ライアンをはじめとする監視社会論が、2000年前後から急速に拡がった情報監視を主な分析の対象としたからだ。生体認証やGPSが身体的差異や位置情報を基盤とするように、この時期から大規模な個人情報の収集とそれに基づく個体識別は日常化した。

 そうした技術的な新しさが、監視社会という言葉の広がりを支えたのだ。もう一つは、監視の担い手が多様化しているという現実を、監視社会論がうまく言い当てたから。企業が個人情報を大規模に収集する。地域住民が監視カメラを設置するという現実は、やはり2000年前後に一般化した。国だけでなく、社会が全面的に監視の担い手になることが、監視社会という言葉に含まれた意味だったのである。

 監視社会論はこの二点に即して、それ以前の監視の分析とみずからを区別する例えば国による監視の拡大を重視する既存の分析は、監視する国と監視される市民という対立の構図を前提とするために、情報監視を市民の自由に対する権利侵害だと批判。だが、監視社会論によれば、監視は必ずしも国による強権的な介入に限定されない。むしろ昨今の状況を考えれば、市民がみずから監視の拡大を推し進めている側面がある。

 勿論、これまでの監視分析もこうした論点を知らなかったわけではない。そのなかには国を中心とした監視から観点を移動させ、M・フーコーの「規律訓練」概念を援用しながら、人びとに依る自発的な監視の拡大を把握しようとするものがあ  る。

 フーコーに依れば、近代社会は学校、工場、病院のように、自己の統制を人びとに身体化させる施設を広範に配備してきた。例えば、私たちは学校で授業を受けて知識を得るが、同時にその過程を通して、公的学校の規範に従った学びを自明視する身体を手に入れている。それは教室の配置や時間割、あるいは教師や専門職による子どもの動作や心理に対する微細なまなざし、さらにその妥当性を理解させる言説などを通して彫琢される。だが、それ以上に重要な点は、この過程に於いて学校規範を子ども自身が受け入れ、みずからの身体を微細に監視し、主体的に行動できる生徒になろうとするという、ある意味で倒錯した機制が作動することにある。こうした機制は他の施設においても働いており、近代社会に生きる人びとは、様々なところでみずからを鍛え上げ、社会的な規範に責任を持つ能動的な主体として構成され続けている。

 そうした主体にとって、監視拡大はそれほど苦痛なものではない。なにしろ、主体そのものが監視産物なのだから、新たな監視導入はすれに受容している規範を再確認するよいチャンスですらある。この機制が強く働く社会に於いて、例えば教室や公共空間に監視カメラを設置することは、市民の自由の侵害ではなく、むしろ規範の自明性を再確認し、それに従わない逸脱者に適切な罰則を与え、みずからと同じ主体に転化させるために必要な措置だと位置づけられるだろう。だから、この社会では特殊な事件や費用の補助といったきっかけさえあれば、すぐに監視は拡大することになる。こうした分析は、監視拡大に対する人びとの無頓着ぶりに一定の解釈を当てえるものだろう。

 近代社会とはそもそも人びとを監視の主体として構成し、監視を求めさせる社会なのだ。

 だが、監視社会論に依れば、この分析は不十分だ。この分析では情報監視という論点がすっぽり抜け落ち、2000年前後に起きた変化を説明できないからだ。監視社会論は、むしろこの情報監視がもたらす社会的な意義を重視し、そこには規律訓練よりも、さらに強制性を確認しづらい権力がはたらいているとみなす。

 そのために、監視社会論にとっては、規律訓練を援用した分析も又、人びとに規範を受容させる作用を強調する点で、国による監視の拡大を重視する分析と共通の類型をなすことになる。

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