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2019年9月 6日 (金)

自己撞着化する監視社会 ⑦

続き:

 

相互承認と自己撞着型権力<2>

 監視カメラとは、膨大な撮影時間の中で問題が起きた一瞬だけを切り取り、まるで恣意性などが無いかのように、私たちにそれを展示する技術である。監視カメラによって、公共空間に起きる他のすべてを無視し、逸脱だけを取り上げて糾弾するすることができる。統計的な効果については未検証の部分が多いにもかかわらず、監視カメラがこれほどまでに普及したのは、私たちの「見たいものを見る」という現代的な欲望に見事に合致したためだと考えることができる。

 冒頭にあげた監視の拡大に対する人びとの無頓着ぶりに関しても、こうした分析はいくらか示唆を与える。不透明な社会において、監視は必要なものと位置づけられるからだ。それは捉えどころのない自己や他者に見通しをつけるための技術が求められるという一般的な意味もあるのだが、それ以上に、みずからが準拠する共同体にとって必要なもの。

 勿論、監視――この言葉が、単純な見通しをつけるという言葉と異なるのは、誰が、何を、どこで、どのように、どの順番で見通すかという重要な問いを言内に含むからだが、不透明な社会と他者承認の希求という社会的な条件は、そうした重要な論点を覆い隠す機制を作り出すように思われる。

 ラストに、監視と共同体の関係は、オンラインの中に限定されないこともあらためて指摘しておこう。2000年前後に大量の監視カメラが設置、共同体の再構成が行われた主要な舞台は、私たちが暮らす地域社会だったからだ。この時期には、地域の衰退と再生の必要性が指摘され、その中で、監視カメラの設置に向けた資源と人材の投入が行われていた。

 監視カメラはこうした地域社会でも、外部から来た逸脱者という表象を展示し、地域に閉じた共同体を立ち上げるための論理的な素材を準備していた。自己撞着する共同体の形成は、広範な社会的動向だと考えてもよい。

 

 一時の共同体論が提示した枠組みは、おおむね現代社会論としては妥当なものだった。実在、現実、経験の位相という重層モデルによって現象を分析する批判的実在論にならえば、一時の共同体論は、社会的な流動性の増大という深層の変化が、人びと動議付けの位相において、自己に対する不安感と他者承認を求める欲望を構成し、それが監視の急速な拡大と瞬間的な共同体の成立という経験的な変化を引き起こしていたと整理することができる。

 それに対して、自己撞着型権力とでも名付けられるラストの分析は、この枠組みを踏まえながらも、人びとの動議付けの位相においてもう少し他者承認を求める欲望が強いこと、だからこそ敵視を相互に妥協とする解釈の循環を引き起こすこと、さらに拡大する監視がそうした解釈の素材を提供していることを指摘した。

 それにより、敵視の共同体を持続させるような解釈が可能となるという一時の共同体論とは異なる論点に言及してきた。

 被差別者や近隣諸国に対する敵視は監視の拡大と並行しながら今後も広がっていく可能性がある。社会の中には包摂に向けた活動がいくつもあり、それを十二分に評価したとしても、やはり外国人労働者の急増やテロの危険性といった敵対性の表象は、自己撞着化する監視社会の拡大とあまりにも親和的だ。

 むしろ、こうした動向を断ち切ろうとするのならば、日本の監視社会論も現代社会論にとどまっているわけにはいかないだろう。今後は、監視と敵視の循環関係から抜け出すような思考とはいかなるものかについても問う必要がある。

 それがこれからの監視社会論が取り組むべき課題の一つではないか。

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