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2019年9月 5日 (木)

自己撞着化する監視社会 ⑥

続き:

 

相互承認と自己撞着型権力<1>  

 一時の共同体は、不安の消えない社会と感情的な個人の集合行動という私たちの日常経験とも符合する論点にふれていることもあり、確かに興味深い。だが、敵視の共同体は本当にすぐ消え去るのだろうか。例えば、オンラインのコミニケーションに関しても、次々と入れ替わる話題がある一方で、むしろ長期にわたって繰り返される話題も認められる。敵視を媒介とした集合行動は、その端緒においては個人の感情的な行動に支えられているかもしれないが、その行動や応答の連鎖の中で相互承認を誘発し、共有された意味をもつ共同体に転化することもやはり有ると考えられる。

 熱狂と鎮火という一時の共同体論のモデルが、離合集散する個人が基盤になる。しかし、そこにはもう少し、お互いの承認を求め合う個人が現れていいはずでだ。過剰な選択肢に悩む人びとが、なぜ共同体を台無しにしてしまう必要があるのだろう。私たちは理論が想定するほど流動的な自己を持ち続けられない。もし、他者と共通した感覚が得られるのならば、そこ正当化にできるだけ安住したい、あるいは一度得られた他者からの反応を出来る限り維持したいと思う個人がいてもまったく不思議ではない。一時の共同体論において、感情的な個人は、あくまでみずからの感情を満たすために敵視を行なっていた。

 そこでの集合行動は、いわば個人的な敵視の累積であり、だからこそ、敵視の共同体はもろいものだと位置づけられていた。だが、それは流動的な社会における他者の承認の重要性を過小評価しているのではないだろうか。

 20c.後半の日本社会に於いて、むしろ他者の承認を求める社会的な傾向性は繰り返し指摘されてきた。とりわけ有名なのはD・リースマンの『孤独な群衆』に連なる分析だろう。規範に沿った社会的役割を取得することで自己を確立していた過去の人間と異なり、現代の人間は規範や役割の揺らぎによって、常に不安定な自己を抱えざるをえず、その安定のために他者による承認を希求するという分析である。

 リースマンの分析は、一時の共同体論と近似するが、その力点を他者承認の渇望に置いている点に特徴がある。すなわち、リースマンの想定する後期近代社会論は、あらゆるものが差異化することを前提とした上で、他者との間に相互承認を求める個人、すなわち同一化を希求する志向性に焦点を合わせる。こうした後期近代社会論を前提とすれば、敵視の共同体には持続的なものが含まれると想定することができる。

 勿論、ここで言う持続性は相対的なものであり、制度化された地縁・血縁共同体のような自明性はもちあわせていない。その意味で、敵視の共同体を維持することは簡単ではない。同一化を志向する個人は、そうした際に、なんとか解釈によって状況の定義を維持続けようとする。例えば、みずからの敵視の妥当性を他者の賛成の意思に求め、それを相互に確認し続ける解釈の循環を作りだすことがある。それは、あらゆるものが差異化する社会において、他者は偶有的であるにもかかわらず、敵視に関しては同一の結論に至ることを根拠に、みずからの敵視を正当化するという論理的な操作からなる。

 当然のことだが、この操作は参照する他者を選別していることを見逃してる。それでも、同一化を志向する個人が、規範なき社会のなかで手近な安心感を相互に得ようとするならば、敵視の相互証明という自己撞着的な解釈に依存することもできる。

 確かに、これが人為的な共犯関係だと指摘することは難しくない。だが、現代に広がる監視は、この解釈にかっこうの「証拠」を与える。1990年代に広がり、2000年代には社会に定着した監視カメラは、まさにこの解釈の循環に必要な素材を提供する技術そのものだ。公共空間に設置された監視カメラは、そのまなざしの範囲に起こるすべての現象を捉えるのだが、そうした現象のなかで私たちが実際に目にするのは、逸脱が起きた場面だけだ。

 

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