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2019年9月 2日 (月)

自己撞着化する監視社会 ③

続き:

 

監視社会論と権力の重層的な理解

 では、監視社会論は、監視の拡大をどのように把握するのだろうか。その要点は、情報監視の源泉が国や規範にあるのではなく、個人による自由な選択の帰結なのだと理解することにある。情報監視とは、簡便な情報の取得や利得の多い売買のために、人びとが進んでみずからの個人情報を提供することで可能となっており、例えば企業などがその収集にいそしんでいるとしても、強制的に個人を参加させられるようなものではない。

 個人による情報の提供がふくらめば、一種のデータベースとなって個体識別や行動予測に転用できるが故に、これを監視と呼ぶこともできるが、だからと言ってそこに人びとを動員する強制力があることは想定されていない。監視社会論は、このような自由な交換の延長線上に、現代における監視の拡大を位置づける。

 ただし、監視社会論があくまでこの事態を「監視」と呼んでいることからもわかる通り、そこに権力性がまったくないと言っているわけではない。データベースに基づく監視は、個人に即した直接的な情報の付与、例えばオンデマンド広告に依って、人びとの欲望を喚起し、さらなる消費の拡大に資する主体として構成することがある。また、膨大なデータは消費動向があまりに極端にならないように需要と供給の最適値を割り出すための技術として活用することもできる。

 フーコーは「生権力」概念によって、こうした技術の特質に目を向け、それを規律訓練とは異なり、人間の生を社会的な有用性に基づいて確率統計的に制御するような、より現代的な権力と見做した。薬物の社会的統制のために一定量をあえて市場に流通させる政策や、子どもの健全育成のために多要因分析によって最適な養育の条件を割り出す研究と、データベースに基づいた個人の監視は同じ類型のテクノロジーと位置づけられる。

 無意識のうちにみずからの欲望を拡張させられこと、あるいは社会的な最適値に基づいて生の拡張を求められることは、当事者にとってみれば、みずからの生であるにもかかわらず選択肢の幅を予め設定されているに等しく、その意味で監視社会論はデータベースに権力性を読み取るのである。

 このように、監視社会論はそれ以前の監視の分析において十分に検討されてこなかった非常に現代的な論点を明らかにした。監視社会論が残した足跡は確かに大きなものだったし、これまでの監視を巡る分析との間に区別をもうけることには一定の意義がある。しかし、監視社会論が流通してから20年が経ち、その間いっそう明らかになりつつあることは、これまで言及してきた権力がお互いに影響を及ぼし合っていることだ。

 例えば、人びとの自由な選択を積み上げたデータベースに国が介入を求めるならば、その分析にあたっては、国を重視した既存の分析と監視社会論の枠組みが、同時に必要となると考えるべきだろう。新しいデータベースに議論を限定したとしても、今やそれが民間を中心としたものだとは言えない。

 監視社会論からすれば、もはや国の権力すらデータベースなしには語りえないということになるかもしれないが、E・スノーデンがあまりにも明白に示したように、それは国による監視が従来以上に強力になり、特定の個人に対する監視をこれまでにない範囲に広げるようになった結果だと理解することもできる。

 また、例えば監視カメラのように、直接的には情報監視につながらない技術が広く社会に普及しているということは、今なお規範の維持のために自発的な監視が求められていることを示唆する。同時に、それが国の監視や企業による情報収集を必要悪と認める社会的な動向を支えているという解釈も可能だ。

 そのために、国による監視、規範にもとづく自発的な監視、データベース監視は、次第に移り変わっていくというよりも、いずれかが表層化しながらも、同時に他の権力も影響力を発揮するような、重層的なモデルとして理解すべきなのだろう。

 あらためて考えれば、監視社会論が2000年前後に登場し、現代社会の分析として重用されること自体に、監視の拡大に対する無頓着という事態の論理的な構造が表れている。というのも、監視社会論にいて、監視の拡大は人びとの自由な選択の結果だとという中立的な理解からなっており、そのように考えるならば、国や企業によるデータベースの不正使用は批判の対象となるとしても、監視の拡大そのものを批判する必要はないからだ。

 監視社会論のなかでも、とくに情報監視の意義を重視する分析は、それ以前の分析とみずからを区別するために、権力の強制性を中和して理解する傾向がある。そうした分析は、時に他の権力論にもとづいて監視批判を行う者を、情報監視の拡大という側面を顧みない古典的な論者であり、多数の人びとが許容する変化を無理やり批判している、というラベルを貼りつけてしまうことがある。

 情報監視を重視する分析は、新たな技術の拡大に目を奪われてしまい、それが他の権力とどのような関係性を持ちながら現代の監視を構成するのかという論点を十分に考えていない。

 とはいえ、それは監視社会論にのみ責任があるとも言い切れない。というのも、みずからが準拠する現実を過度に一般化し、他の現実を考えた構造的な理解が困難であることは、後述の分析において指摘される、現代社会の傾向性をよく表しているのかもしれないからだ。

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