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2020年1月 6日 (月)

「殺人の自動化というテクノロジー」―③

続き:

 

<3> 自律型兵器の「売り」

 軍事テクノロジーの発展について考える一つの視点は、「距離」に注目することである。武器は,その使用者ができるだけ離れた所から敵に対して効果的な攻撃を与えることが出来るように発展してきた。敵よりも遠くから効果的な攻撃を与えることが出来れば、敵からの攻撃を受けるリスクを軽減させることができる。槍、弓矢、銃、大砲、ミサイル、ドローン等の軍事テクノロジーはこのような発展のベクトルの上に位置付けることができる。

 アメリカ軍やCIAが中東やアフリカで標的を殺害するために使用しているドローンは、遠く離れたアメリカ国内の基地から操作されている。ドローンのオペレーターは地球半周分も離れた敵に対して――ICBMなどに比べれば相対的に――「精密」な攻撃を与えることができる。

 距離という観点から見た時、ドローンは究極的な兵器に思われる。しかし自律型兵器はさらにその上を行く。ドローンであっても、どうにかしてオペレーターがいる基地を攻撃すれば、ドローンによる攻撃を阻止することはできる。しかしながら自律型兵器についてはもはやオペレーターとして名指しできる人間が存在しないかもしれない。ここにおいて武器の使用者と敵との間の距離は無限に広がっている。

 遠隔操作されるドローンについて論じた論文の中で、哲学者のマーク・ケッケルバフは、ドローンが作り出す距離の心理的影響について注意を促している。多くの人間にとって、目の前にいる人間を殺傷するのは、心理的に難しい。実際のところ戦場において目の前にいる人間を抵抗なく殺せるようになるために、兵士たちは特別な訓練を受け、特殊な心理状態になる必要がある。ケッケルバフは、ドローンの作り出す敵との距離が殺人をより容易にする可能性に警鐘を鳴らしている。

 しかし同時にケッケルバフは、情報技術によって、ドローンのオペレーターが標的についてより豊富な情報を持つことが、両者の間の心理的な隔たりを緩和する可能性についても希望的に語っている。しかしこの希望は遠隔操作されるドローンが自律型兵器に変容することによって霧消する。もはや標的めがけてミサイルを打ち落とすことに抵抗感を感じる人間はどこにもいないからだ。

 このことはある意味で、自律型兵器の「売り」の一つにもなるだろう。人間は人間を殺すことに抵抗感を持つものであり、そしてその抵抗感が大きいほど、殺人を犯した後の罪悪感は大きい。ベトナム戦争に従軍した兵士たちは、巧みな条件付けによって敵を殺すことに対する抵抗感を克服できるようになったが、そのことは大きな代償を伴っていた。調査によって数字は異なるが、ベトナムから帰還した兵士の18%から54%が深刻なPTSDに苦しんでいるという。彼らは社会的孤立、失業、アルコールや薬物への依存、家庭の崩壊、睡眠障害、心臓病などの問題を抱える率が顕著に高い。

 戦争に赴き、人を殺すということは最も危険で、苦痛の大きい「汚れ仕事」の一つであろう。ドローンは兵士を危険に曝すことなく戦闘を行うことを可能にする。自律型兵器はそれに加えて、人を殺すことから生じる精神的苦痛からも兵士を守ってくれる。「ロボット」という言葉チェコの作家、カレル・チャペックが最初に使ったもので、「強制労働」の意味でチェコ語に由来。ロボットがどのように定義されるのであれ、人間の代わりに労働を行うのがロボットの本質だ。労働は価値ある商品やサービスを生み出すが、労働者にとっては苦痛や危険の源でもありうる。苦痛や危険の大きなタスクをロボットに代行させることができれば、私たちは労働者にそのリスクを負わせることなく、その労働が生み出す価値を享受することができる。ドローンや自律型兵器も同様だ。兵士たちが殺人という労働に従事してくれることによって国は勝利や安全という価値を――上手くいけば――享受することができる。

 しかしこの労働は兵士たちにきわめて大きな危険と苦痛を与える。人間の兵士に代わってロボットをこの労働に従事させることで、国家は安全や勝利という成果をリスクなしに手に入れることが可能になる――

 哲学者のブラッドレー・ジェイ・ストローサーは、自国民を「不必要なリスク」に曝すことは国家の義務に悖るという理由から、ドローンを使うことは国家の道徳的な義務であると論じた。何故ならドローンを使えば兵士が敵の攻撃を受ける可能性はなくなる一方で、ドローンを使わず兵士を戦地に送れば彼らは確実に敵の攻撃に曝されることになるからである。

 しかしドローンを使ったとしても、殺人という過酷なタスクに起因する精神的外傷とPTSDからオペレーターを完全に守ることはできない。もし自律型兵器を使用することによって兵士を精神的外傷のリスクに曝すことを避けることができるならば、自律型兵器を使うことは国家のぎむである、ということが同じ論法から導かれるだろう。

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