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2020年2月27日 (木)

批判なき時代の民主主義 ④

続き:

 

□ アンタゴニズムとはなにか?

 あらためて、アンタゴニズム(敵対性)とはなにか?それは、いかなる敵対的な関係を表現しているのか?敵対性についての最もまとまった考察を遺したエルネスト・ラクラウによれば、敵対性とは単に存在的(ontic)な次元での経験的な対立や諍いのことではなく、存在論的(ontological)なレベルで捉える必要があるという。

 

  敵対性ということで、私たちは何を理解しているのか?私が尋ねているのは、社会には実際にはどのような敵対性が存在しているのか、ということではなく、もっと根本的なことである。即ち、敵対性とは何か?それは、社会勢力の間のどのような関係を想定しているのか?これこそ、通常、社会学的な研究で見落とされる問いなのである。そのような研究は、普通、現実の「抗争」、「対立」、「闘争」に集中するが、これらのカテゴリーの存在論的な性質について問うことはない。しかし、理論の最前線を前に進めたいのならば、この性質にこそ関心を向ける必要あるのだ。

 

 このような存在論的な関心から、敵対性についての最も簡潔な定式化が得られる。「敵対性とはあらゆる客観性の限界である」。言い換えれば、敵対性とは、私が完全な私として現前することを妨げるものにほかならない。しかし、これをシュミット的な友/敵関係のように捉えるべきではない。というのも、それはまたしても存在的な次元で対立を語ることになってしまうだろう。むしろ、敵対性の概念に決定的なことは、それがアイデンティティにとって矛盾する二つの役割を同時に遂行していることにある。ラクラウをもう一度引用する。

 

  一方でそれは、対立しているアイデンティティの十全な構成を「ブロック」し、それゆえその偶発性を示すものである。しかし他方ですべてのアイデンティティがそうであるように、この後者のアイデンティティが関係的なものであり、従ってそれに敵対している勢力との関係にとって外的なものでないとすれば、この敵対者はそのアイデンティティの存在条件でもある。

 

 ラクラウは、こうした外部と内部との両義的な関係性を「構成的外部」と呼んでいる。つまり、敵対的な外部は内部(たとえば私たちのアイデンティティや社会)を脅かすものであるが、同時に内部にとって構成的でもあるということだ。別言すれば、私たちのアイデンティティは敵対する相手によって阻害されているのだが、そのアイデンティティはそうした外部なしには成立しない。その為、十全なアイデンティティは不可能であり、不完全なものとしてのみ可能。その限りで、アンタゴニズムは社会にとっての何がしかの<真理>を表しており、だからこそ、これが民主主義の第一線の問題となるわけだ。

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