批判なき時代の民主主義 ②
続き:
□ 批判と秘密
<批判>にとっては厳しい時代だ。ミシェル・フーコーは、1978年にフランス哲学協会で行った講演において、批判的な態度を<統治されないための技術>と定義している。批判が統治から逃れるための、不服従を求める技術にほかならないとすれば、批判は統治からの一定程度の距離を必要とするだろう。
とはいえ、批判の未来はそう明るいものではない。たとえば、近年の監視テクノロジーの発達は、私たちの民主政治を根本的に再考するよう迫っている。セキュリティを理由に監視カメラを設置することが私たちの自由を危うくすることについてはこれまで広く議論されてきたが、こうした光景も、いまやすっかり当たり前になってしまった。このような文脈において、中国における監視テクノロジーの発展には、目をみはるものがある。いまや、あちこちでこちらを見つめるカメラは、捕らえた人物をAIによって顔認証し、さらには動体(動作)認識することも可能になっているという。
しかし、事態はもう少し複雑な絡まり方をしているようだ。問題は、監視する国家やビッグブラザーのみならず、社会全体に行き渡っている「監視文化」でもある。それは、ドライブレコーダーの記録を警察やメディアに差し出し、SNSにせっせとアップロードする私たちのことだろう。あるいはここに、「イートイン脱税」の摘発に精を出し、ポイント還元キャンペーンにつられて購買情報を嬉々としてさらす、昨今の状況を付け加えてもいいかもしれない。」
このような状況にあって、いまや、あらゆるものが公的な光に曝される態勢にある。このとき危機にあるのは、哲学者ジャック・デリダがときおり「秘密」あるいは「秘められたもの」と呼んだ何かだろう。デリダによれば、本質的に万人への公開に向かない「秘められたもの」が存在するし、存在しなければならない。しかし秘密は、それが公的なものでないからといって、私的なものというわけでもない。秘密はリベラルな公/私の区分には従わない。
わたしには秘密への嗜好があります。これはもちろん、無―帰属と隣り合わせです。わたしは、たとえば政治的空間のような、秘密に場を譲ることのない公的空間をまえにすると不安や恐れの感情を抱きます。わたしにとって、全員をその公的空間に集めることを各自に要請し、心の奥底というものを存在させないように各自に要請すること、それは、直ちに民主政の「全体主義的―生成」へとつながります。(…)秘密への権利を維持しない限り、人は全体主義的な空間にいることになるのです。
重要なことは、デリダがこのような秘密、あるいは秘密への権利に、政治への潜勢力を認めていることだ。別のところでは、「この(=秘密の)異質性は脱政治化するものでありません。それはむしろ政治化の条件なのです」とあるように、秘密は現行の公/私区分では割り切れず、むしろそうした区分それ自体を政治化することがある。だとすると、このような秘密がもつ根源的な異質性こそ、リベラルな統治への批判的態度にとって不可欠なものにちがいない。
ところで、こうした秘密の存在は、つねに権力にとっての関心事であった。フーコーは、主体に秘密を吐き出させる司牧的権力を浮き彫りにしたが、しかし、こんにちのビッグデータとアルゴリズムは、もはやそうした告白のシステムを必要としないだろう。私たちは日々おのれの秘密を吐露しており、それらはすべて収集され、記録し、検閲を受けているのだから。
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