批判なき時代の民主主義 ③
続き:
□ 二つの否定性
さて、批判や対立が難しいとはいえ、「否定的なもの」がいっさい存在しないというわけではない。むしろ、それらは抑圧されるうちに凝縮され、ときに思わぬ仕方回帰することがある。自由民主主義における対立の回避は、自由民主主義そのものへの挑戦として跳ね返るだろう。
たとえば、ポピュリズムの台頭は、代議制民主主義を中心とする従来の政治空間への深刻な異議申し立てといえる。マイノリティに排外主義的な態度をとり、憎悪を煽る右派的な言説が一定の影響力を持ってしまうのは、政治的情念の受け皿の不在を示すもの。
しかし、行き場のない感情的なくすぶりが、平等と公正さへの要求として現れることもある。エリートやテクノクラシーによる少数者支配を批判し、公正な再分配を訴える「左派ポピュリズム」と呼ばれる勢力がそれである。いっときの勢いを失ったとはいえ、シリザやポデモスといった勢力は、排外主義とは異なる仕方で人々の諸要求を節合しているし、英国労働党のジェレミー・コービンや米国のバーニー・サンダースにも注目が集まっている。こうした動向のなかで、これまで左派やリベラルの関心からしばしば抜け落ちてきた経済や貧困、さらにはエコロジーといった問題が、あらためて課題として再発見されている。
この点で、シャンタル・ムフの『左派ポピュリズムのために』は、彼女の「ポピュリズム的転回」を示す興味深いテクストである。よく知られているように、もとよりムフは、闘技的民主主義という立場から、左―右の中道化を厳しく批判していた。この立場は、皆の話し合いによってコンセンサスを形成していくことではなく、そのようなコンセンサス形成が必ず失敗してしまうことに、民主主義の本性と意義を見出そうとする。民主主義において重要なのは、和解や合意よりも対立や不和である、というわけ。
しかし、2018年に刊行された『左派ポピュリズムのために』において、ムフは左派ポピュリズム論客へと転身している。彼女の議論を要約すると、次のようなものになるだろう。すなわち、このかん欧州連合や各国政府が進めてきた新自由主義的な緊縮政策によって、新しいオリガーキー(少数者支配)が生じている。中間層は瘦せ細り、大多数の人々は政治的に無力化され、自由民主主義はいまや「ポスト・デモクラシー」的な状況にある。この局面において左派は、ポピュリズム戦略に訴えることで、エスタブリッシュメント(既得権益層)に対抗する勢力をまとめあげ、自由民主主義を回復しなければならない。こんにちのポピュリスト・モーメントのもと、ポピュリズムのネガティブなイメージを払拭し、左派やリベラルも積極的にこのポピュリズム戦略を打ち出すべきである―――。
さて、ムフのこのかんの理論的変遷を概観しつつ、ここでは二つの否定性を区別しておくことが有益だろう。一方で、現代社会で困難になっているのは、相手を正統な対抗者とみなしたうえで批判を闘わせるアゴニズム(闘技)である。それはルールを遵守しながら争うゲームに近い。健全なアゴニズムはイデオロギーや主張を闘わせるための公共空間を必要とするが、自由で開かれた共和主義的な闘技空間への展望は、いまやすっかり収縮してしまった。この点で、インターネットやSNSが果たした役割は大きい。人々はまったく異なった現実を生きており、対話の前提となる「共通世界」(アレント)のリアリティはかなり疑わしいものになっている。
他方で、闘技的な対立に代えて、そうした象徴化されない文字通りの否定性としての「アンタゴニズム(敵対性)」が前景化している。私たちの現実は、一般にアゴニズムの理論家が唱える楽観とは逆向きの方向に進んでいる。たとえばシャンタル・ムフの理論では、敵対性は闘技へと転換され、敵は対抗者として認められることが条件であった。あるいは同じくアゴニズムの民主主義論を説くウィリアム・コノリーは、「闘技的な敬意」や「批判的応答性」をアゴニズムの条件であるとしたが、分断がますます加速する社会にあって、そのような見通しは明るいものではない。。いまや闘技のための空間は閉じてしまい、対抗者は敵へと、闘技は敵対性へとほどけてしまった。繰り返そう。私たちの問題は、社会契約より以前のアンタゴニズムにある。
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