批判なき時代の民主主義 ①
「世界 1」より、山本 圭(立命館大学法学部准教授)さんの小論文をコピーペー:
□ 対立をやり過ごす社会
2019/11/12、配信された「立場を超えて皇室に共感」という記事において、社会学者の大澤真幸は「祝賀御列の儀」の様子を伝えている。俄かに信じがたい光景であるが、引用しよう。
車列を待つ間、警察官が我々群衆に「練習をしておきましょうか」と呼びかけ、拍手をさせた。別の群衆から拍手が聞こえてくると、「負けないで!」と声をかけ、笑いも起きた。近くの女性が「東京ディズニーランドのキャストみたい」ともらした。現場には、深い尊敬の思いというよりも、両陛下を直接見るという行動を楽しんでいる空気があり、それを感じ取ったからこそ警官はふざけてみせたのだろう。
大澤は、あらゆる政治的立場や利害関係を超えてコミットできる存在が天皇および皇后なのだろうと指摘する。社会に様々に走る政治的・経済的・文化的な分断線は、天皇制イデオロギーのもとでは不可視化され、中性的な差異へと還元されている。社会は一体のものとして、いかなる亀裂もない透明なものとして表象されるのだ。
実際、近年、活発な対立や批判はあまり歓迎されない雰囲気がある。野党による国会追及にせよ、路上での抗議運動にせよ、批判し対立することは、ネット上に溢れかえる罵詈雑言と大差ないものとして処理されるか、あるいは「空気が読めない」ことと同義される。選挙で「批判なき政治」を高らかに唱えた政治家もいれば、批判することを疑う態度が大学の広告になる。芸術は公共にとって「不愉快なもの」であれば、公的な助成から除外されてもかまわない……。共感にせよ、包摂にせよ。寛容にせよ、無条件の肯定がよしとされる、そのような知的かつ政治的環境を私たちは生きている。
最近の政治理論や民主主義論にも、同じような動向を確認することができる。ダーヴィッド・ヴァン・レイブルック『選挙制を疑う』では、私たちが民主主義を「代議制民主主義」と同一視していることが問題とされ、それを「選挙原理主義」と表現している。
選挙原理主義とは、選挙のない民主主義など考えられず、民主主義について語るためには選挙が必要不可欠の条件であるとする、揺るぎなき信仰だ。選挙原理主義者は選挙を、民主主義を実践する一つの方法とは見なさない。目的それ自体と見なし、誰にも譲渡できない本質的価値を備えた神聖な原理と見なしている。
レイブルックからすると、選挙は民主主義の実現であるどころか、むしろその理念を阻むものとして機能している。従って、民主主義的な平等の理念を実現するのは、選挙よりむしろ、「抽選」ないし「くじ引き」によるほうが相応しい。こうして「くじ引き民主主義(ロトクラシー)」の意義が提唱される。
こうした選挙中心主義への批判は、左派系の思想関係の書籍としては異例の「成功」といえる斉藤幸平編『未来への大分岐』にも見て取れる。本書によると、現代の左派の戦略は「日本版のサンダースやコービンを探し、素晴らしい政策を考えつく識者を見つけ、選挙に勝って新しい法律と
制度を施工し、「上からの」制度改革を成し遂げる」、つまり「闘いの主戦場が選挙政治と政策立案になってしまっている」といい、こうした陥穽を「政治主義」と呼ぶ。つまり本来であれば、社会運動と政治のボトムアップ的な結び付きこそが不可欠であるのに、いまの日本政治はそうなっていない。―斎藤は提起する。このように、レイブルックにせよ斎藤にせよ、選挙の意義を過大評価することに警鐘を鳴らし、別の仕方で民主主義の理念を実体化することが昨今トレンドになっているようだ。
しかし、急いで付け加えておきたいのは、普通選挙とは社会の分断を可視化させ、権力の中心が空虚であることを定期的に露わにする制度でもあるということだ。政治哲学者のクロード・ルフォールは、普通選挙に社会的分断を制度化する役割を求めている。選挙は権力の場をめぐる政治的競争を制度的に担保し、その本来的な空虚さをたえず私たちに想起させる。そうすると、選挙の意義を過小評価することはやはり、様々な政党やイデオロギーが闘争する、そのような政治を収縮させるだろう。ここでもやはり、対立には居場所がないことになる。
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