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2020年2月28日 (金)

批判なき時代の民主主義 ⑤

続き:

 

 これこそ、いまや古典的な概念にもなった<帝国>とマルチチュードの関係を説明するものだ。ネグリ=ハートは、グローバルな資本主義体制に抵抗する群衆をマルチチュードと呼んだが、そのような群衆は単に資本主義の外部から生じるものではない。むしろ帝国的なヘゲモニーの内部から、その統治テクノロジーに寄生し、転用し、乗っ取るような仕方で現れる点がポイント。じっさい、フランスでのジレ・ジョーヌ(黄色いベスト運動)にせよ香港の抵抗運動にせよ、資本主義企業が生み出したSNSやスマートフォンといったテクノロジーなしには、こんにちのような動員は考えにくいだろう。

 日本でも、安全保障関連法案を巡って、多くの人々が街頭に現れたことは記憶に新しい。彼らが自由民主主義の掲げる理念を逆手に取り、文字通りの自由と民主主義の実現を求めたのも偶然ではないのだ。

 同じことがポピュリズムについても言える。右にせよ左せよ、ポピュリズムが自由民主主義への根本的な異議申し立てとして現れている。しかし自由民主主義が、ポピュリズムの粗暴さに頭を抱えつつも、それを最終的に追い払うことができないのは、まさにこの敵対関係の両義的な性格のため。近年のポピュリズム論では、ポピュリズムは民主主義そのものとは矛盾しないものの、自由―民主主義とは相性が悪いと議論されることが多い。しかし、いくら私たちがポピュリズムを批判し、”正常な“自由民主主義への回帰を訴えたちしても、それが民主主義のひとつのバージョンであるかぎり、ポピュリズムは亡霊のように憑きまとうだろう。

 従って、ここでの結論はさしあたりこうである。アンタゴニズムの存在を、一時的で例外的なものと見なさず、それを民主的な課題として認識すること。確かにそれは、私たちのアイデンティティや社会の基盤が本質的に偶然的であることを露わにする点で、根本的に不快なものにちがいない。しかし、同時にそれは開放や変革のしらせでもある。眼前の敵対的な諸々の要求を迂回することなく、むしろそれらに正面から向き合い、民主主義を深化する好機にする政治戦略がますます重要になるだろう。

 ここでの考察は、実践的には次のことを帰結するだろう。近年、「革新/保守」に代わって「リベラル/保守」という図式が持ち出されることがある。このような変化は、昨今のリベラルと保守論壇のあいだの強度の敵対関係を反映したものだ。だが、たとえば「ネット右翼」に「非合理」のレッテルを貼り、対話から排除するようなリベラルの態度は、ヘゲモニー戦略のうえでは得策ではない。本稿で明示した敵対性の両義的性格を踏まえると、彼らの存在はリベラルの逆立ちした姿であり、何がしかの切実さを体現している可能性がある。

 だからこそ、ムフが言うように、「を悪魔化する超党派的なコンセンサスの戦略は、道徳的な慰めになるだろうが、政治的には無力である。(…)彼らの要求の源泉に、民主的な核を認めることが必要なのである」。そのような困難なエートスを私たちのあいだに涵養し、もう一度アンタゴニズムの形式へと昇華できるかどうか、このことに民主社会の未来は賭けられているのだろう。

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