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2020年5月26日 (火)

「中村哲先生の死」に世界中のアフガニスタン人が泣いている ③

続き:

■ 他国の侵攻に翻弄された歴史

 アフガニスタンはいろいろな民族が同じ土地に住んでいますが、協力し合ってもいるし、親戚同士という場合もあるし、どの社会にもあるように気が合わない人もいます。

 根が深いのは、1978年に共産主義政権ができた影響です。共産主義は、イスラムの文化や価値観、アフガニスタンの文化とは異質なものです。しかし、世界的に見れば、民族同士を争わせて共産政権が権力を握ろうとする実態がありました。そして1979年、ソ連軍が軍事介入し戦乱となりました。紛争は10年間続き、1989年、ソ連軍撤退により終結しましたが、世界各国から抵抗のため集結したムジャヒディン(イスラム戦士)の内部対立が続き、タリバン政権が誕生しました。

 タリバンはイスラム過激派組織で、ジハードというイスラム教の教義に由来しています。2001/09/11、アメリカで起こった過激派アルカイダによる同時多発テロを機に、10月より、米軍によるアフガニスタンのタリバンに対する空爆が開始され、2ヶ月後にタリバン政権は崩壊。そして、アフガニスタン暫定行政機構が成立し、2004年にアフガニスタン・イスラム共和国が成立しました。

 タリバン政権崩壊後は、国際同盟国によるアフガニスタン支援が「アフガニスタン復興支援国際会議」で決議され、その主要なメンバーである日本をはじめとする国際社会によりアフガニスタンの復興支援が始まりました。

 ただ、政権崩壊後もタリバンは存在し続け、ここ数年再び勢力を強めています。そして、シリアやイラクで強大な力を持っていた過激派組織「IS(イスラム国)」がアフガニスタンでも卑劣で許し難いテロを繰り返し行っており、アフガニスタン国内の治安は残念ながらいまだ不安定で、混乱は収束していません。

 こうした状況のなか、人々にずっと寄り添い支えてくださったのが、中村哲先生でした。世界中のどんなエキスパートより、先生はよくアフガニスタンを知っておられました。

 私(バシール・モハバット)はと言えば、1976年、19歳のとき日本に留学。将来は外交官になりたいと思っていましたが、1979年のソ連のアフガニスタン侵攻で帰国できなくなりました。私の家族も含め、1000万人近くが難民として国外に出ました。そして、アフガニスタン暫定行政機構成立後、2003年に27年もかかって外交官となる夢がかなったのです。

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