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2020年8月 1日 (土)

デジタル・メディアとアナログ・ジャーナリズム ⑤

続き:

◉ 世論を輿論へ <1>

 コロナ禍で浮かび上がったもう一つの課題は世論との向き合い方だ。

 感染者の爆発的増加を指すオーバーシュートという言葉がキーワードになったが、危機時には世論もオーバーシュートする。緊急事態宣言直後の世論調査では「遅すぎる」の回答が8割占有す。迫りくるウィルスに脅威を感じて急ぎ対応を求めたくなるのは当然だ。しかし、これが私権の制限につながる重大事案にもかかわらず、一定の熟議を求める意見に対してネット上では乱暴な批判が相次いだ。その後、世論の一部は「自粛警察」とまで表現される異物排除にエスカレートしていく。

 コロナ禍のような命にかかわる危機では、普段覆われていた感情がむき出しになり、それが高じると世論の一部は権力者以上に「公共」への服従を人々に強いるようになる。「三密」警戒の中で、営業を続けるパチンコ店だけでなく、日給で暮らす人やネットカフェ難民など逃げ場のない人たちまで「自己責任」を問い、「公共」の純化を図ろうとする。この状況にメディアはどう振る舞えばいいのか。

 メディアは客観報道が基本。しかし世論のオーバーシュートは人間の内面の問題だ。「多様性の社会」は必ずしも心地よい世界ではないし、身勝手な感情は人間誰にでもある。メディアはそうした人の心の弱さとしっかり向き合えていないように思う。

 あるべき論に終始する社説や目線の高い識者評論は、オーバーシュートした世論には届かない。河原(私)は危機時にこそ記者自身が人としての葛藤を素直に書くべきだと考える。「三密」警戒を破る行為には相手の事情を抜きに心がざわつく。そのざわつく感情から出発し、それを発露する危うさとどう向き合うか。読者と同じ地平に立つ記者が自問を重ねながら葛藤と曲折を伝えていく。世の人々と同様に弱い心を抱えながら迷い考える記者の素顔をみせていくことで、メディアは世論に分け入ることができるのではないか。

 米紙ニューヨーク・タイムズにはコロナ禍を報じる記事の中で記者の思いや取材プロセスを織り込んだものが増えてきている。人の心が乾く時には一人称の記事が訴求力を持つ。あの記者の思いを知りたいという読者が増えれば、新聞は媒体としての厚みを増すはずだ。

 では平時の世論は冷静で的確な判断をしているかというと、そうではない。河原(私)の取材・編集歴を振り返っても、その怖さを感じたことは何度もある。世論という難物に対してメディアがどう向き合うかは、これからの民主主義とジャーナリズムを考えるうえで普遍的な論点になるだろう。

 1990年代前半、多額の不良債権を抱えた金融機関に公的資金、つまり税金を投入するかどうかが問題になった。バブル期に銀行などが儲けのために競って貸し出した不動産担保の融資が地価の下落で大量に焦げ付いたためだ。これは銀行の自業自得で、高給をもらう銀行を税金で救済するのは許せないというのが圧倒的な世論だった。

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