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2020年8月 5日 (水)

デジタル・メディアとアナログ・ジャーナリズム ⑨

続き:

◉ 権力との距離感

 権力の監視はメディアの最大の仕事。平時か危機時かかわらずメディアは権力と距離を置くことが求められる。一方で、記者は権力の懐に入らないとネタは取れぬ。懐に入るためには、したたかさも必要だ。距離を置くことと懐に入ること。その「間合い」をどう取るかは新聞記者の重要な資質の一つ。

 コロナ禍で世の人々の多くが不自由な生活を強いられる中、東京高検の黒川弘務検事長が産経新聞記者、朝日新聞社員と賭けマージャンをしていたことで辞任。この問題では記者たちも批判の対象となった。賭けマージャンも問題だが、紙面で読者に自粛を呼び掛けている新聞社の人間が真逆の行為をしていることはメディア組織としてまさに痛恨事なのだ。

 ただ、世間の批判はもっと根深いところにありそうだ。

 4人は過去3年ほどの間に月1~2回の定例で賭けマージャンを重ねていたという。記者サイドからすると、権力の懐入り込んだわけだが、世間からはインナーサークルで権力と一体化しているとしかみえない。何故なら世間をうならせる特報はインナーサークルの外にいる週刊誌の方が圧倒的に多く、記者たちが懐に入っているはずの新聞からは読者に資するスクープが少ないから。新聞は権力と持ちつ持たれつだとする「マスゴミ」批判の淵源はこのあたりにあるのだろう。記者が権力の懐に入るのは情報を得るためだ。しかし、読者にとってその情報が届かなければ意味がないことは紛れもない事である。

 コロナ禍のさなかに放映されたNHKの「独占告白 渡辺恒雄~戦後政治はこうして作られた」をみた。そこで読売新聞主筆の渡辺氏は1960年代に大野伴睦自民党副総裁(当時)と韓国要人を引き合わせて、難航していた日韓国交正常化交渉の橋渡しをしたことを明らかにした。氏はその後極秘で進められていた国交正常化の交渉内容をスクープしており、政治記者として”結果”を出している。渡辺氏は懐に入った成果物を読者に示したのだ。

 ただし、このケースはそのプロセスに議論があるだろう。自身の人脈を使って日韓の要人をつないだ渡辺氏の行為は、権力の監視者、観察者であるべき記者の矩を超え、取材対象である政治家の代行者、つまり当事者になっている。これは許されることなのか。

 渡辺氏は番組の中で、政治は人間関係や生臭い人情が動かしており、奥まで入り込まないと政治の深層はわからないという趣旨の話をしている。たしかにその通りだろう。しかし、観察者から当事者の領域に踏み出すことはジャーナリズムの存亡にかかわる死活的な問題ではないか。

 記者が権力と利益と同じくすると、書く記事には必ずバイアスがかかる。噂が広がり、読者は色眼鏡で記事を読むようになる。つまり独立性に疑義が生まれる。

 政治思想家ハンナ・アーレントは「政治のありようはその権力の及ばない人々や制度の存在にかかっている」として、裁判所や大学と並んでメディアの独立性を全体主義や専制政治に陥らないための要件に挙げている。民主主義は脆いシステムであり、これらの機関が権力に左右されない政治の外部にあってこそ持ちこたえられるということだ。

 民主主義を支えることがジャーナリズムの本義であるならば、記者は独立性を売り払ってはならない。観察者に徹することは記者の倫理に委ねる問題ではなく、記者であるための義務だと河原(私)は考える。

 権力の懐に入るだけでは記者の仕事は成立しない。しかし観察者の立場から踏み出してもいけない。この記者という仕事の難しさと醍醐味について、メディアは組織の中でもっと議論を深めていくべきだ。

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