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2020年9月29日 (火)

人間と科学 第316回 体と心の5億年(6)――養老孟司 ③

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 もう30年近く前になるが、先生が『形を読む』(1986年)という書き下ろしを仕上げ、それが本になった時、「やはり書き下ろしは良いな」と充実した表情で、出来立ての本を手渡されたことがあった。その『形を読む』は、初期の養老先生の思索を体系だって形にした本だったが、最近の書き下ろしには『遺言。』(2017年)がある。ここには養老先生の集大成ともいえる、いわば「養老孟司の脳」の到達点がある。

 その頃、養老先生は、奥さんとその友人たちと連れ立って、イギリスから出航し、ポルトガル沖をめぐるクルーズ船の旅をした。船の中では、奥さんやその友人たちの女性陣から距離をとって、ひとり客室で過ごすことが多かったらしい。そこで、自分のこれまでの人生と思索を振り返り、それを一気にまとめて書き上げたのが『遺言。』の原稿だった。旅から帰った養老先生が「船の中で一冊の本を書いた」と言った。その声の響きに、かって『形を読む』を書き上げたときの「やっぱり書き下ろしはいいな」というあの声と同じ充実感を感じた。

 『遺言。』を読み解くキーワードは「イコール」あるいは「同じ」だろう。これがヒトの本質だと養老先生は考えた。鎌倉の先生のご自宅で、こんな話を聞いた。『遺言。』にも書いてある話だ。先生は、ペンで紙に「白」と書く。そして、「これは何色?」と聞く。白だから白でしょう、と言うと、「黒いインクで書いてあるから、黒じゃないか」。それを「白」と思うのは、言語を理解するヒトだからだ。それを「意識優先」という。しかし目で知覚すれば、それは黒い色だ。これを「感覚所与」という。ヒトは、白という字を白と認識できるが、他の動物にはそれができない。

 話は変わるが、ある時、養老先生と美術館でトークをするという企画があった。その打ち合わせで、美術館の人と三人で話していると、先生は何度も「我々は」という。そこで「先生のいう我々とは、何を指しているのですか」と聞いてみた。ここにいる三人あるいは美術館のトークを聞きに来た人なのか。あるいは日本人全体?養老先生は答えた。「ネアンデルタール人の後だ」。普通、我々といえば、どんなに広くても、今この世界に生きている人類全体だろう。平和や愛を唱える人が言う「我々」もその程度だ。しかし養老先生が「我々」というとき、それは「ネアンデルタール人の後」と思って聞かなければいけない。超・博愛、なのだ(笑)。

 ネアンデルタール人は、現代人より脳が大きい。だが、絵を描いたり文字を使うことはなかった。たぶん、その代わり感覚は現代人より遙かに優れていた。しかし「白」という字を「黒」とみて、「白」とは認識できなかった。それを、養老先生は「ネアンデルタール人の後からが我々」と言ったわけだ。

 私には、三木成夫先生から学んだ「生命の記憶」、あるいは「内臓にある心」という見方に加え、そんなふうに養老先生から「ヒトとは何か」を学んだ。世界の見取り図ができた。

 最後に一言。若い頃、養老先生がぼそっと口にした言葉だ。「人生の分かれ道で、その先が見える道と、先が見えない道があったら、先が見えない道を選ぶ方がいい」。そのほうが、可能性が広がるというのだ。これは今でも自分の座右の銘だ。

 ともあれ、恩師とは有難い存在だ。

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