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2020年10月15日 (木)

可視化されたベーシックインカムの可能性 ⑤

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 1930年代の大失業時代、すべての労働可能な人々に雇用を与えようとしたアメリカのニューディール政策はたしかに大きな意味をもった。その後、第二次世界大戦中にアメリカ経済は年率12%で成長し、戦後は政府が最大限の雇用の責任を負うことが法律に明記された(「1946年雇用法」)。

 完全雇用は戦後資本主義諸国に共通の目標となった。労働側はそれを手がかりに「働くものすべてに十分な雇用機会を」「失業のない社会を」と要求し、政府は支出による需要拡大で雇用水準を思うようにコントロールできるという信念をみなぎらせ、企業も労働攻勢への対応上、積極的に、あるいはしぶしぶ、それを受け入れた。完全雇用政策に基づく戦後経済成長が生活水準を大きく引き上げ、貧困根絶に絶大な役割を果たしたことは疑いない。

 しかし、この「完全雇用体制」は、みんなが生産するというそれ自体のために、慢性的な過剰供給体質を経済にもたらした。生産されたものの付加価値(利潤)は製品に対する需要が旺盛なあいだは高まるが、市場が飽和すれば消滅する。また利潤は国際競争の面からも圧縮される。過剰は過当競争と投資抑制の両方を、また需要の不足はつねに総需要が政策的に喚起される必要性を経済に深く植え付けた。これが「戦後フォーディズム」と呼ばれた経済の大量生産=大量消費とケインズ主義の基本関係だ。

 こうした戦後経済システムは、たんに雇用を維持するだけのためにも、たえず新たな欲望を作り出さねばならない。この無限の悪循環は、「鏡の国のアリス」で描かれた、その場にいるためだけでも走り続けなければならない状態と似ている。「依存効果」とはこうした悪循環を消費行動の面から捉えた概念だ。

 第二次世界大戦後、先進諸国の完全雇用体制に基づく経済は、1970年代初頭までの飛躍的成長ののちに、諸国民の生活水準がある程度まで向上し製品需要が低迷し、市場が飽和するにつれ長期停滞の時代に行き着いた。

高コストの完全雇用体制は、もはや不合理

 完全雇用体制のあまり理解されていないもう1つの側面は、それが高コストであるということ。

 戦後の完全雇用体制は、1930年代の大恐慌期の各国の「雇用救済」を原型とし、戦後経済において標準とされ全面化したものであった。

 そもそも失業に対しては、政府が雇用を創出し職を与える「雇用救済」と、直接に生活費を補償する「直接救済」がある。現在のコロナ危機では、感染症拡大を避けることからも「雇用救済」は選択肢となりにくく、「直接救済」=「直接給付」が前面に出てきたのである。

 雇用救済が失業対策として高コストであることは、ニューディールの時代にすでに議論されていた。直接救済では、当時、単身世帯100~300ドル程度で最低限の生活を支えることができた。しかし雇用救済となると、労務費だけでなく、資本設備や原材料などで、労働コストの何倍かの資本コストがさらに必要、1人あたりの救済費用が高くなる。このことがニューディールの救済支出をふくらませ救済対象を狭めた1つの理由であった。

 さらに、雇用救済に当たって資本コストを抑制し、多くの失業者を雇い入れるためには、機械化の割合を増加するのではなく減少して、手作業を多くするほうがいいことになる。従って、連邦緊急救済局は、あえて機械化を抑え、マニュアル労働を多くせざるをえなかった。ニューディールの雇用救済がいくぶん滑稽に見えたことは事実だ。つまり雇用救済それ自体がその内に「技術的失業」の問題を抱えていたといえる。

 しかし、「雇用創出」が割高であるという事実は、当時もその後も、多くの人々に理解されてきたとはいえない。このことは、戦後、完全雇用政策が大手を振ってまかり通った理由の一つであったと思われる。

 すべての就労可能な人々に雇用を保障するためには、直接的な労働コストをはるかに上回る資本設備が必要、それによって生み出される財とサービスの販路を探す必要に迫られる。従って、そのためだけにも経済の規模は必然的に大きくならざるをえない。また雇用による所得を通じて生活を保障しようとするため、技術的失業を相殺するだけの別の労働需要を作り出す必要が生まれる。

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