現代の危機に~経済論争の復権~ ⑤
続き:
なぜ、経済学教育は主流派オンリーではダメなのか? <2>
しかしながら、現代の主流派経済学の主潮流は、「稀少な資源の有効な配分に関する道理的選択の理論」としての経済学の枠組みに閉じこもるがゆえか、こうした世界の現実的政治動向と、それに対応した主流派経済学以外の社会科学の諸潮流における学問動向への関心の扉を閉ざしているように見える。勿論、筆者(吉原)が個人面識のある主流派アプローチをとる経済学者の多くは極めて良心的であるし、慈悲深い観点で既存の経済問題を解決したいと思っている。したがって、現代社会における、四割にも達する非正規労働者層に見られるような社会の階層分化や国民の多くの層の貧困化という現実も認識し、深い関心を寄せているし、統計データ解析による検証も行う。しかしながら、そういう彼らも、弱い立場の労働者を産み出す労働市場の分断的構造や、その分断を利用して貧富の格差を増長する搾取の構造、そしてそうした構造を形成してきた社会の新自由主義化の歴史的プロセスなどの論点には関心を示さない。
だが、こうした論点に関して議論することこそが、一般市民の社会経済問題への知的関心の陶冶に貢献する経済学教育たりえよう。なぜならは、「統治者」の立場に就く事も想定される一部のエリート官僚やエリート・ビジネスマンを除けば、大多数の一般市民、とりわけ就職活動に苦労する若年層や、学業とアルバイトとの両立に苦労する学生たちにとっての身近な経済問題とは、例えば「今の社会の中で一生懸命努力しているのに、どうして自分たちは困窮していくのだろう」という素朴な問いであり、それがより昇華されたものが、「自分たちがこうして困窮化していくのは、今の社会のどういう仕組みゆえなのだろう」という経済学的問いであるからだ。
しかしながら、この種の問い対しても、「経済学分野の参照基準(原案)」が提唱した経済学教育の「標準化アプローチ」では、応えることができない。なぜならば「参照基準(原案)」では、経済学を学ぶ意義についても、「投資に関する知識を習得する事によって個人の資産管理にも役立つ」というような、所与の資本制経済の下で、「市場競争をいかに賢明に生きるかの処世術」という卑小な観点でしか、説明できていなかったからだ。民主政社会の下での社会経済システムを運営する一主権者として、その主権の妥当な行使のために必要な社会経済システムに関する原理的性質や歴史的起源、および既存システムの超克を展望するための学識の習得という視角は一切なかったのである。
現代の主流派経済学の孕むこうした弱点を良い意味で補完する役割が期待できるのが、狭義のマルクス派を含む政治経済学に関する教育科目であろう。なぜならば、これらの諸潮流こそが、資本制経済システムに固有な原理的性質と人類史の大きな流れの中でのその歴史的規定性の解明を、学問的課題として進展してきたからだ。また、こうした非支流派の諸潮流を含んだ日本の経済学研究・教育の多様性は、世界的に見ても独自の特性であり、かつ、欧米諸国と比しての日本の大学の比較優位でもある。
実際、戦前以来の日本におけるマルクス経済学研究は、宇野弘蔵及び宇野学派による研究、マルクスの草稿解読とマルクス・エンゲルス全集(MEGA)の編集に関する国際共同研究、置塩信雄・森嶋通夫による数理的マルクス経済学のパイオニア的研究など、欧米諸国からも長年の間、認知・注目され、参照され続けている。この伝統は今日でも継続しており、最新のMEGA研究に基づくマルクス解釈学の分野や、数理的マルクス経済学やポスト・ケインズ派系の分析的政治経済学の分野でも、現在の日本人研究者による先端的研究は国際的にも高く評価されている。
上述のような現代の社会情勢もあって、世界的にはマルクス派やポスト・ケインズ派などの経済理論への再評価の流れがある。2011年には米国ハーバード大学でもオキュパイ運動の流れの中で、非主流派の経済学説の教育機会を求める学生の授業ボイコット運動も起きた。この傾向を鑑みるに、経済学分野での日本の大学の高い国際評価を獲得するという実利的な観点からも、日本の独自かつ比較優位な研究・教育分野をわざわざ衰退させるのは合理的選択とはいえないだろう。
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