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2021年6月24日 (木)

人新世――新たな地質時代の科学と政治 ⑤

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人新世のコモンズを統制する

 「悲劇」。それはアリストテレスによれば、傲慢による英雄の凋落だ。地球の変容の多くの部分は悪徳、つまり自然を支配することからくる傲慢や、あらゆる環境学的な限界の無視、そして人間の能力を超えた理性の行き過ぎなどに帰依するのかもしれない。

 「完新世の終わり」と考えられる 20c. 半ば、ヒトラーの暴政から逃れたフランクフルト学派の哲学者マックス・ホルクハイマー(1895~1973)とテオドール・アドルノ(1903~1969)は、同世紀に発生した巨大で破壊的な国家権力の源泉がどこにあるかを理解しようとした。

 著書『啓蒙の弁証法』で二人は、近代の失敗について、自然の支配をその中心において分析した。近代は、自然界から純粋理性の世界への開放を約束していた。理性は自由の時代に打ち立てたが、その一方で逆説的に、かってないほど自然を恐れるようになった。古代ギリシアのロゴスを起源とする認識体系は、「恐るべき自然」を「ついには征服し尽くした」が、それは新たな恐怖をもたらした。

 身体が自然に享楽を感じるとしても、それを分け与えている国家によって操作されている、と二人は主張する。もはや自然は、自律的で、神秘的な人知を超えた主体ではなく、あたかも切り刻まれた死体のような純粋な客体となった。しかしそれは我々自身の死にほかならなかった。二人はこう警告する。「こうして文明は、ついにその行き着くところ、恐るべき自然へ逆戻りする」。そして二人は、自然が再び人知を超えたものとなるよう、世界の再魔術化を切望するのである。

 たしかに二人の、あらゆる関係性が合理化された取引に矮小化されてしまう危険性についての指摘や、恐怖についての暗い予言には十分に理由がある。しかし彼らの分析は、二つの面で人新世には当てはまらない。

 第一に、二項対立的な状態に戻ることは不可能である。人間が支配する惑星において、自然界への介入を止めて人間の手が加わっていない状態に戻ることはありえない。人新世は良くも悪くも、地球と人類を相互に、完全に統合されたものとして概念化しているのである。

 第二に、不安定で予測不可能になったこの地球システムを制御してその危機を緩和するためにわたしたちは、自らがおかれた状況を把握するための科学を基礎づける理性や、分析するための論理を放棄してはいけない。単一の指標を拒絶して、文化の複数性と個人の特異性を力に変える、思いやりやコミュニティの価値も放棄してはならない。ホルクハイマーとアドルノが述べたように「余すところなく啓蒙された地表は、今、勝ち誇った凶徴に輝いている」かもしれない。しかし、古代の神秘と国粋主義のために科学を拒絶してしまえば、確実に我々は滅びてしまう。理性と勝ちの組み合わせこそが、人新世の学際的理解を進める上で、我々が追い求めるものである。

 具体的に言えば、人新世をこのように全体論的に理解することで、二つの制御方法が浮かび上がる。地球を新たにラディカルに把握すること、そして地域レベルで再生のための戦略を浸透させていくことだ。人新世の現実は、新たな政治的関心の対象としてグローバル・コモンズを、そしてそのグローバル・コモンズに関する人間性全般である新たな政治的エージェントを生み出す。

 我々は、個人としても社会としても、常に生物学的エージェント群であり、地質学的エージェント群であり、物理化学的エージェント群でもあった。それがいまひとつの地球システム・エージェントという集合的なエージェントになっているのである。この過去にない存在を、必ず制御システムのなかに組み込まなければならない。複数形の「エージェント群」から単数形の「エージェント」に完全に移行するわけではないし、一度移行したら戻れないわけでもない。我々は変わらず各々の人生において、無数の小さいエージェント群のひとつであり続ける。しかしそこに新しく惑星エージェントという役割が加わるのだ。

 惑星エージェントは、より小さなスケールのエージェントが意味ある存在であるための基本条件が失われてしまう閾値と、(もう戻れない地点である)ティッピング・ポイントに規定される。地球システムを安定化させてさらなるダメージを抑え込むには、地球システムの物理的制約を理解したうえで、政治的行為を通じて自分たちのエネルギーをその制約の中に抑える意思が必要なのだ。

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