« ソーシャルメディア時代のメガ・イベント ⑥ | トップページ | ソーシャルメディア時代のメガ・イベント ⑧ »

2021年7月22日 (木)

ソーシャルメディア時代のメガ・イベント ⑦

続き:

■ イベント=出来事への感性

 ここ最近の世論が示す「東京2020大会」への幻滅が最終的にどこへと向かうのかは、現時点ではわからない。さまざまな制約と規制のもとでなんとか開催にこぎ着けた東京大会が、終了後に「コロナ禍の苦難に負けず成し遂げられた世紀の偉業」として称賛され、オリンピックというメガイベントのさらなる神話化にひと役買うことになる可能性もゼロではないだろう。ここでは徒に未来予測することは慎み、現時点の状況を踏まえて<わたしたち>がメガイベントと関わるうえでの課題について考えよう。

 「東京2020大会」への幻滅が広まる背景に、人びとが抱く「こんなはずではなかった」とか「期待を裏切られた」との苦い思いが見え隠れする。曰く、自分たちは「被害者」であると。だがそれは、少し皮肉な言い方をすればあまりに虫が良すぎる話ではないだろうか。ここに至るまで人びとが先物取引としての感動を賭け金に世紀のメガイベントに投資してきたことは、前に言った通りである。そうであれば、大多数の者は一方的に裏切られた無垢な被害者ではない、ある意味でイベント推進側と一緒になって謀に加担してきた共犯者だとも言える。この「不都合な事実」に真摯に目を向けることが、今後のメガイベントとの付き合い方を考えるうえでの前提条件だろう。

 そうした自省の姿勢と自覚をもって自らのメガイベントとの関わりを振り返ると、いったいそこで自分がことを期待し、なにを欲していたのかが見えてくるに違いない。楽し気で、きらびやかで、華やかなイベントへの誘いと戯れることで、実際に何が得られたのだろうか。メディアが煽り続けた熱狂や感動に身を委ねることで、はたして<わたし>自身になにを目指していたのだろうか。このように問い直すことで、メディアとイベントが約束し続けてきた大仰な感動やレガシーといった先物取引の中身と、そこに参画する一人ひとりが自らの人生で追い求めようとするささやかで堅実な希望との重なりとズレが浮かび上がるだろう。今後、メガイベントとの関わりで巧妙な策略に騙されないためにも、また無自覚のうちに共犯者にならないためにも、ほかならぬ、<わたし>自身にとっての意義を冷静に考えることは無駄ではないだろう。

 

« ソーシャルメディア時代のメガ・イベント ⑥ | トップページ | ソーシャルメディア時代のメガ・イベント ⑧ »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事