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2021年7月23日 (金)

ソーシャルメディア時代のメガ・イベント ⑧

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 自分自身にとってのイベントの意義を考えていくと、そもそも「イベントとはなにか」との根本的な問いが立ち現れる。スポーツ競技大会や音楽・芸能の催しを「イベント」と呼ぶのが今では一般的だが、そもそも英語の event とは「出来事」「事件」「アクシデント」などを意味する言葉だ。その語源からは、周到に計画され予定通りに開催される現在の「イベント」とは対照的に、あらかじめ予期できず、事前の想定を超えて、突然に降りかかる出来事としての顔がうかがい知れる。そこに示唆される思い通りにならぬ状況は、誰にとってもとても面倒で厄介であり、できることなら避けたい事態かもしれない。だが同時に、不確実で予期できぬことが起こるからこそイベント=出来事のただ中で、人びとは名状しがたい自由や楽しさを感じてきたのではないだろうか。もしもすべてがあらかじめ決められた通りに進み、約束された結末が期待通りに訪れるだけならば、イベントに惹きつけられることはないだろう。「どうなるか分からない」から不安で身がすくむけれど、同時に「そこで何かが生まれるかもしれない」との期待や願望も大きく膨らむ。この両義性が感じられることがイベントの醍醐味であろう。そうであれば、それに伴う緊張感を、体よく設えられたスペクタクル=見世物に安易に任すのではなく、自らが引き受ける覚悟をもったうえで未知なるイベントと関わることができれば、そこではこれまでとは違うかたちでの等身大の夢や希望の契機が<わたし>の前に現れるのではないだろうか。

 2020年夏に開催予定されていた「東京2020大会」は、コロナ禍のもとで幻のオリンピックと化した。COVID-19 のパンデミックのために楽しみにしていたイベントが延期に追いやられたことに、世界中の人々が失望したことだろう。だが、人類にとって未曾有の危機と言える新型コロナの蔓延は、文字通りイベント=不測の出来事である。今後いやがうえにもウイズコロナの時代に生きることを強いられる<わたしたち>は、互いに支え助け合いながら幾多の難局を切り抜け、その先に新たな希望を見出すことを求められている。現在瀕死の姿をさらけ出すメガイベントを前にして自らのこれまでの関わり方を真摯に振り返ることは、イベント=出来事への感性を取り戻し、来るべき「別なる未来」を想像するうえで大いに意義がある。

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