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2021年8月16日 (月)

スマホとデジタル全体主義 ②

続き:

デジタル全体主義、あるいはテクノロジー的全体主義

 こうした状況をズボフは「監視資本主義」として捉えたわけだが、同じ事態をマルクス・ガブリエルは「デジタル全体主義」として分析している(ガブリエル;中島 2020:第一章)。われわれは日々、GAFAをはじめとするプラットフォームを利用することによって、大量の個人データをIT企業に捕捉されている。ガブリエルの見るところ、こうした状況は21c.型の新たな全体主義という枠組みによって捉えられるべきものであり、それは20c.型の国家全体主義とは違い、ソフトウェア企業群が形成する「超帝国」という枠組みによって捉えられるべきものである。ガブリエルによれば、全体主義とは公的領域と私的領域の境界線を破壊していく支配体制で、今日のネット社会では正しくこの境界線が次々と破壊されている。「全体主義では、あらゆる私的なものが公的なものになりかわって」いくのだが(34p)、現代では「特別警察ではなく、人々が自ら進んで公と私の境界線を破壊して喜んでいる」のである(36p)。

 かようにデジタルテクノロジーによって「自発的監視」が行き渡る状況を「新たな全体主義」と捉えようとするガブリエルの議論は触発的だが、彼の立論だけでもって現代のネット社会(あるいはスマホ社会)を「全体主義」と呼ぶことが果たして適当なのかどうか、いささか疑問が残るところもある。確かにあらゆるもののオンライン化が進む中で、公的領域と私的領域がますます曖昧化していることは確かなのだが(コロナ禍で進む在宅ワークで自宅と職場の区別がつかなくなっている状況を想起すればよい)、その現実だけをもって現状を「全体主義」と呼びうるのか、ガブリエルの説明だけでは判然としない。例えば、ナチズムやスターリニズムなどの全体主義を「公的領域と私的領域の境界線の破壊」という特徴だけでもって把握することができるだろうか?

 この問題に対して、筆者(百木)は戸谷洋志との共著『漂泊のアーレント 戦場のヨナス』の終章で、アーレントおよびヨナスの思想を参照しながら「テクノロジー的全体主義」という概念を提起しておいた。その際筆者らは、アーレントの全体主義論とヨナスのテクノロジー論を参照しながら、人間の「自発性」と「複数性」を破壊するところに全体主義の特徴があることを強調した。これはアーレントが『全体主義の起源』第二版の終章「イデオロギーとテロル」のなかで論じたことだが、それによれば、全体主義とは「テロルによってイデオロギーを無理やりに現実化していくことにより、人間の自発性と複数性を破壊しようとする支配体制」であると定義しておくことができる。

 ここでいう「自発性spontaneity」とは、「新しい過程processを始める能力」のことであり、「活動」によって予測不可能な「始まり」をもたらす力(または性質)のことだ。人間はこの能力(または性質)を持つからこそ、この世界に新たな「始まり」をもたらし、単調な繰り返し(循環的な自然の運動)から抜け出して、予測不能な出来事へと飛び込んでいくことができる。それによって、他者とともに新たな出来事および過程を体験し、それぞれの「複数性plurality」を確証させていくこともできるだろう。

 全体主義は「イデオロギーとテロル」の組み合わせによって、自発性を必然性に、複数性を同一性(あるいは全体性)へと縮減していき、最終的に「人間の条件」を破壊しようとする運動であった。例えば、ナチズムは反ユダヤ主義(レイシズム)、スターリニズムはマルクス主義(唯物史観)というイデオロギーを掲げ、そのイデオロギーをテロルによって無理やりに現実のものとすることによって、大量虐殺の悲劇を引き起こし、無数の人々の自発性(自由)と複数性(多様性)を毀損し続けたのだった。

 以上のことを踏まえた上で、もし、現代に全体主義が再現するとすれば、それはナチズムやスターリニズムのような国家全体主義とは異なる形態で現れてくる可能性が高い、という筆者(百木)らの考えであった。すなわち、それは国家権力が「イデオロギーとテロル」を用いるという形態ではなく、グローバル企業を中心とする政治―経済権力のネットワークが「最新のテクノロジー」を用いる形態をとりながら人間の自発性と複数性を奪い取っていくものとなるだろう。

 それは次のようなもの。今日ではスマホを通じて日々蓄積された個人データを用いることによって、各人の属性や行動パターンを分析、次の行動を予測することも可能になってきている。さらに進んで、その人が次にどのように行動することが統計的及び確率論的に最善なのか、その「最適性」を人工知能とビッグデータの組み合わせが教えてくれるようになる未来もそう遠くはないだろう。例――あなたは○○大学の△△学部に進学して□□を学ぶのが将来的に最も成功の可能性が高いですよ、とか、あなたは××会社に入って◆◆という部署で▲▲の仕事をするのが最も向いているでしょう。

 また最新のバイオテクノロジーを用いることによって、具体的には、最新の出生前診断や遺伝子診断の技術を用いることによって、これから生まれてくる子どもは運動能力に優れているでせう、とか、勉強が得意でしょう、とか、芸術方面に豊かな才能を発揮するでしょう、といった予測をすることも遠からず可能になるかもしれない。そうすると、親としてはどうしてもその優れた資質を伸ばすような教育を施したくなるだろう。それは子どもの持つ能力を最大限に伸ばすという意味では「自然」な選択であろうが、しかしそのように、人工知能とデータベースの組み合わせが人生の選択における「最適解」を示してくれるようになると、それは次第に、人間の「自発性」と「複数性」を根本的に奪うものになっていくのではないか。

 戸谷と百木が「テクノロジー的全体主義」という言葉で表そうとしたのは、最新のデジタルテクノロジーやバイオテクノロジーを駆使することによって、かようにわれわれの「自発性」と「複数性」をソフトからスマートに奪い取ってしまう新たな権力形態に他ならない。このように理論づけることで、ガブリエルがデジタル全体主義と名付けたものの実態を、よりクリアに描き出すことができる。

 

 

 

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