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2021年8月18日 (水)

スマホとデジタル全体主義 ④

続き:

幸福な監視社会?

 そうした近未来に現在、最も近づいているのは、「幸福な監視国家」とも言われる中国であろう。中国の都市部には至る所に監視カメラが設置され、あらゆる個人情報が国家の監視下にあるが、多くの国民はその監視を受け入れており、それによって治安が改善されたり、交通事故が減ったり、住民の満足度が向上したりする効果が見られているという(梶谷+高口 2019)。梶谷と高口によれば、中国の監視体制をオーウェル的なディストピア社会と重ね合わせてみるとは的外れであり、むしろオルダス・ハクスリーが『すばらしい新世界』で描いたような、多幸感に満ちた「お行儀のいい監視社会」として理解するほうが実態に合っている。ドイツの政治学者セバスチャン・ハイルマンは、こうした中国における監視体制を「デジタル・レーニン主義」と表現して注目を集めた。

 昨年には、デジタル技術を用いた韓国の新型コロナ対策も話題となった。スマホのGPS機能とクレジットカードの利用履歴をリアルタイムで収集することによって、コロナ感染者の位置情報を常に把握し、その周囲数百メートル圏内にいる人々の携帯電話に「いま、コロナ感染者が近くにいますよ」というメール通知を流す。自分の居住地域の近くで感染者が出ると、年齢や性別、居住地域、感染前後の行動経路などが即座にスマホに送信されてくる。初期段階から大規模PCR検査を実施したことも功を奏し、韓国は大規模なロックダウンなしに、早期にコロナ感染拡大の抑え込みに成功した。韓国のこうした先進的なコロナ対策は、16歳以上の国民全員が「住民登録証」を所有しており、政府がそれと紐づいたGPS情報やクレジットカード情報などの個人データを追跡できる体制が事前に整っていたことによって可能となったものであった。スマホと国民番号制が結びつくことによって、きわめて効率的で効果的なデジタル型コロナ対策が可能となるのだ。

 9・11テロ後のアメリカがそうであったように、こうした非常事態における監視体制は、その後も常態化してしまう可能性が高い。アガンベンおいう「例外状態の状態化」だ。そこでは人間は「剝き出しの生」(あるいは動物的存在)として扱われ、データ数値として処理されることになるだろう。ガブリエルのいうデジタル全体主義、戸谷と筆者(百木)のいうテクノロジー的全体主義もまた、そうした生政治とデジタルテクノロジーの組み合わせとして理解できる。それはフーコーの構想した「生政治」の感性形態に近いものになるはずだ。そして現状では、そうした統治権力の最大のインターフェイスとなっているのがスマホなのである。将来的にはここに各種のウェアラブル装置(アップルウォッチやグーグルグラスやマイクロチップのような装置)が加わることによって、デジタルテクノロジーとバイオテクノロジーが合体し、ますますわれわれの「生そのもの」が電子データとして絶えず捕捉され続けることになるだろう。

 ジョン・チェニー=リッポルドは『われわれはデータである(We Are Data)』と題された本のなかで、システムやプラットフォームは利用者をデータという観点からしか見ていないことを強調している(チェ二―=リッポルト 2018)。マッチングサイトにおける恋人候補も、子どもモニターシステムにおける泣いている赤ちゃんも、アルゴリズムにとってはすべて単なるデータ上の数字に還元されるものでしかない(ライアン 2019:135p)。そこでの主役はデータベースとアルゴリズムであって、人間はあくまでアルゴリズムが作動するためのデータを提供する存在に過ぎなくなるのだ。これもまた「人間主義の終焉」と「データ主義の到来」というハラリの描く未来像に合致するものであろう。

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