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2021年12月16日 (木)

気候崩壊と脱成長コミュニズム ④

続き:

脱成長のジレンマ

 一定の水準を超えれば、経済成長に依存しなくとも、人々の幸福度を維持し、改善することができるから心配はいらないと脱成長は訴える。とはいえ、脱成長は当然のことながら不人気だ。脱成長の主張がいくら倫理的に正しくとも、この不公正な世界では主流派になれない。そのせいで、「切迫感が乏しい」理想論のように聞こえてしまう。これが脱成長のジレンマである。

 結局、気候危機を前にしても、先進国の思考法は変わらない。彼らの気候変動対策は、これまで通りの経済成長を当然の前提としているのである。だが自明な事実は、経済成長とともにエネルギー消費量が増え続けてきたことだ。今後は、この両者を技術革新によって急速に切り離さなければならない。いわゆる「デカップリング」である。

 たしかに、再エネや省エネ、さらにはネガティブエミッション技術(大気中の二酸化炭素を吸収する技術)の飛躍的発展と普及はデカップリングを加速させていく。そうすれば、IPCC のシナリオ通りに、経済成長を続けながらも、2100年までの気温上昇を1.5℃以内に収められる可能性も残されている。だとすれば、わざわざ脱成長お求めるなどというのは、愚か者の発想に他ならない。脱成長のようなラディカルな提案は、一般の意識や関心からかけ離れている。そのため、社会を変えるような力にはなれないのではないかという疑問が絶えずつきまとう。

 そうした意味では、「グリーン・ニューディール」 (GND) よる「環境も経済も」という路線の方が、幅広い支持を集める可能性が高い。再エネ関連インフラへの投資拡大によって、失業問題や格差にも挑むGNDであれば、企業や政治家も労働者も手を握る余地があるからだ。ただし、GNDの内容は様々だ。どの程度経済成長を重視するのか、国家がどれくらいの規模の財政出動をするのか、についt意見が異なる人々がこの言葉を使っている。GNDは呉越同舟的に結集させる力を持つのである。

 だが、正にこの点にリスクありだ。大衆運動にしていくためには、様々な集団や運動を繋ぐ要求が必要、しかし、それが仇となるのだ。この問題は、SDGs は正に、政府や大企業から環境団体まで多様な集団がつながる結節点になっている。だが、まさにその結果として、 SDGsはその理念が骨抜きにされ、「大衆のアヘン」に成り下がっている。

 このように概念が「偽物」たちに乗っ取られ、既存の価値観に迎合する方向にずれていけば、仮に選挙に勝つことはできても、社会を変えることは到底不可能だ。むしろ、今まで通りの生活が不合理であるときに、既存の権力関係を再生産してしまう。だから、選挙で投票して社会を変えるという「政治主義」はすぐ壁にぶち当たるのだ。

 その限りで、ジレンマを抱えているのは脱成長だけではない。GNDも同じ穴の狢だ。気候危機を解決するためには、GNDは大きくならなければいけない。だが、大きくなればなるほど、GNDは資本主義によって骨抜きにされていく。そもそも、社会を変えるために、この間目も当てられないくらい失敗してきた資本主義システムを維持しなければいけない、というのは何とも皮肉である。真に必要なのは、資本主義に挑む新しい政治的想像力ではないか。

 政治・社会運動を大きくするために欠かせないのが、インターセクショナリティ(交差性)の視点である。例えば、GNDは環境と経済を結び付けた。けれども、気候正義と経済成長を結びつける前に、この経済成長を駆り立ててきた資本主義システムに結びつく暴力性や抑圧、搾取を徹底して反省する必要がある。その批判的作業なしには、過去と同じ過ちが繰り返されてしまうからだ。

 環境問題を経済成長という資本主義のポジティブな面だけ結びつけるのではなく、人種、階級、ジェンダーをめぐる資本主義の抑圧や搾取と絡めて論じなくてはならない。そしてこれこそ、脱成長の目指すところなのである。

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