デジタル・デモクラシー ③
続き:
日本では顔認識技術が次々と導入
この 10年、米国市民社会は監視技術がもたらす民主主義や人権への侵害と全面的に闘ってきた。日本はどうか。残念ながら、逆の方向に進んでいると言わざるを得ない。
日本での顔認識技術は2010年頃から広がっていった。最近では、例えば東京都の大手書店が、万引き防止のために顔認識カメラを設置し、そのデータを三店で共有する「渋谷書店万引対策共同プロジェクト」が2019年に始まっている。個人情報保護法には抵触しないと導入されたが、プライバシー侵害の議論は深まらないままだ。
2021年7月には、JR東日本が主要駅の安全対策として、顔認識技術を用いて指名手配中の容疑者や刑務所からの出所者・仮出所者を駅構内で検知する仕組みを導入していたことが読売新聞の報道によって明らかになった。データベースに容疑者等の顔写真を登録しておき、カメラで撮影した不特定多数の人の顔とその写真を一致させるという仕組みだ(顔識別)。出所者まで「安全上の懸念」として検知されるのは人権侵害にあたるのではないか。無関係の市民が誤認識された場合も当然人権侵害にあたるのではないか。無関係の市民が誤認識された場合も当然人権侵害にあたるだろう。JR東日本は「社会的なコンセンサスが得られていない」として、出所者、仮出所者の登録は当面停止すると発表した(指名手配者や不審者を対象とした運用は継続)。世論の反発を受けての苦しい対応と言えるが、これで問題は解決したのだろうか。JR東日本の行為は、現状は「合法的」であり、同じことが他の公共空間で行なわれる可能性は十分ある。
日本では現在、顔認識技術を公共空間で使うことに関する法律や社会的な合意もない。米国の経験を参照しながら、私たちもこの議論を始める時ではないだろうか。
ビッグ・テックによるかってない経済体制を「監視資本主義」と論じたショシャナ・ズボフ教授(ハーバードビジネススクール名誉教授)は、「監視産業は2000年からの20年、法や規制が追いつかない空間で自由に謳歌してきた」と指摘する。まるで、植民者が先住民を無視して「ここは私たちの土地だ」と宣誓し、自らのルールを構築したようなものだ、と教授は喩える。
しかしいま、その空白の20年間を埋めるように、米国市民社会は監視技術に対し NO を突きつけている。コミュニティの力によって巨大な力を押し返そうとする運動は、一歩ずつ成果をあげてきた。監視技術の弊害は常にマイノリティへと向かい、人々を分断し民主主義を後退させてきたことを考えれば、ビッグ・テックとの闘いが、民主主義を求める運動の中心課題に据えられるのは当然だろう。
これを「いたちごっこ」と冷笑することは簡単。しかし、それすらできない社会には、ビッグ・テックと人々との力関係を変革することなど不可能だ。欧州で「忘れられる権利」が登場したように、私たちは既存の法律の枠組みにはまだ存在しない、「デジタル時代の人権」概念を創り、育てていく必要もある。
闘いはまだ始まったばかりだ。
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