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2023年7月16日 (日)

人間と科学 第348回 歴史散歩 医学の眼 リーダーたちが病気になった時(3) ③

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そこで、賀静に僧正法印大和尚の位を追贈すうと、帝は扇の絵が見えるほどに回復したという。本当だろうか ?ならば医者要らずで、筆者たちは失業だ。道長は譲位を迫り続け、帝の症状は悪化し、食も進まなくなった。秋には重要書類も読めなくなり、道長に准摂政の宣旨(国政委任)を下しながらも、自分の皇子の処遇の条件闘争を行っていた。

 しかし、暮には目が全く見えなくなり、ついに譲位を承知した。この頃に詠まれた三条帝の悲痛な和歌は小倉百人一首にも加えられている。

 心にも  あらでうき世に

 ながらへば  恋しかるべき  夜半の月かな

 翌 1016/01/29、帝は退位し、道長の娘、彰子が生んだ皇子が即位した。後一条天皇である。1017年4月、三条院の健康は著しく悪化し、5月に 41歳で崩御された。後日の祟りを怖れてか、道長は頻回に見舞いに参上したという。

 この世をば  わ が世と思う 

 もち月の  欠けたることの  なしと思えば

言わずと知れた、絶好期の道長の和歌である。対立して追いやった三条院もすでに亡く、(驚くべきことに)孫の後一条帝にも自分の娘を入内させ、自らは摂政や太政大臣を歴任し、この上ない達成感に浸っていたはずだ。一方で、この和歌を作った寛仁 2 (1018) 年、52 歳の彼の健康状態は必ずしもよくなく、もち月は欠けてゆくばかりとなっていた。

 

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