日記・コラム・つぶやき

2019年8月21日 (水)

EUとポピュリズムのせめぎあい ⑤

続き:

 

 欧州議会選挙後のEU はどこへ向かうのだろうか。2017/03/01、にコミッションが公表した「欧州将来白書」では5つのシナリオが示されている。それは、第1にEU の権限の範囲と強度を現状のまま維持することである。第2に「アラカルト欧州」であり、EU レベルの協力を単一市場の深化にとどめることである。すなわち、EU の権限の範囲を単一市場のみに縮小し、それ以外の権限を加盟国に返還することを意味する。第3のシナリオは「2速度式欧州」である。意思と能力を有する加盟国が特定分野先行して統合を進める一方、他の加盟国も後から参加することが可能である。第4のシナリオは「準アラカルト欧州」であり、EU の権限を一部縮小して加盟国に返還する代わりに、残りの分野ではEU の権限を強化することを意味する。第5のシナリオは、EU がすべての政策分野で権限を一層強化して共通の課題に取り組むことである。

 以上のシナリオは、政策分野に応じて組み合わせが可能。ポピュリスト政党が選好するのは明らかに「アラカルト欧州」である。それには国境管理や移民・難民政策の権限をEU から取り戻すことが含まれる。しかし、ハンガリーとポーランドの事例を参照するならば、ポピュリスト政党は自国のアイデンティティを唱えて多文化主義を否定し、移民・難民などの「他者」を排除する。

 また、多数派支配を維持するために「法の支配」を軽視し、司法権の独立やメディアの中立性を否定することにより、権威主義化するリスクを伴う。EU では、それは人権、法の支配などに対する重大な違反を対象とする権利停止手続きの対象となる。また、6月24日EU 司法裁判所は、ポーランドのポピュリスト政権が最高裁判所判事の定年を恣意的に引き下げて現職判事を排除したことがEU 法上の司法権独立に反するという判決を下している。

 他方で、金融政策を補完する追加的な政策手段としてユーロ圏共通予算を導入することなどの課題については2速度式欧州が必要とされる。一方、気候変動・環境問題に関しては国境を越える課題としてEU が権限を強化して主導的役割を果たすことが期待される分野である。環境保護派の「緑の党・欧州自由連合」をはじめとする親EU 派政党の協力が期待される。

2019年8月20日 (火)

EUとポピュリズムのせめぎあい ④

続き:

 

 ポピュリスト政党が結束を維持できる場合、EU を内から変革するため、その政策決定に影響を及ぼす径路として、欧州議会以外に政府間ルートが存在する。欧州議会ルートとは、EUの政策立案・執行機関であるコミッションの指名、立法採択や予算の承認等で影響力を行使することである。

 ポピュリスト政党の投票行動は、その印象とは裏腹に大企業寄りで、労働者保護や環境保全に関する法案に反対する傾向があると言われている。今回の選挙では、ポピュリスト政党の議席がすべての会派を合計しても過半数に達しないため、このルートによる影響力が限定的で、審議の遅延などにとどまる。

 これに対し、政府間ルートは、加盟国の選挙を通じて単独政権や連立政権を形成することにより、ポピュリスト政治家が首脳または閣僚として、欧州理事会( EU 首脳会議)や閣僚理事会の決定に加わることにより影響力を行使することができる。

 欧州理事会はEUの基本政治方針をコンセンサスで定めるので、ポピュリスト政治家の首脳がその形成を妨げることは可能である。ただし、様々な重要議題がある中で「ピア・プレッシャー」(同僚圧力)が働くため、決定をブロックすることが常に容易であるとは限らない。

 また、閣僚理事会は欧州議会と共同で立法・予算の決定を行うが、原則として「特定多数決」(加盟国数の55%+EU 全人口の65%)に基づくため、ある議案でポピュリスト政治家の閣僚が反対票を投じても成立する可能性が高い。なお、閣僚理事会では特定多数決事項であっても、実際には審議を尽くしてコンセンサスで決定することが慣行化している。

 EU内でポピュリスト政党が加わる政権が増加すれば、それだけ EU の政策決定が影響を受けることになる。現在のところ、ポピュリスト政党が参加する政権を有する加盟国は28ヵ国中7ヵ国である。

 残りの国内ルートは、ポピュリスト政党が野党や閣外協力政党として、加盟国政府のEU関連政策に影響を及ぼす場合である。たとえばデンマークで見られたように、反移民の世論の高まりを受けてポピュリスト政党に対する支持率が上昇したため、選挙を控えて政府が反移民的政策を導入し、それがEUレベルでも同国政府の政策に反映されるようになる場合である。

2019年8月19日 (月)

EUとポピュリズムのせめぎあい ③

続き:

 

 しかし、ポーランド与党で26議席の「法と正義」やハンガリーのオルバン首相の与党で13議席の「フィデス・ハンガリー市民連盟」(フィデス)、また、イギリスのファラージ氏が率いる29議席のブレグジット党は、「アイデンティティと民主主義」会派への合流を見送ったため、ポピュリスト政党の大同団結は成らなかった。

 他方、親 EU 派の各会派の獲得議席合計は522~518に減少したものの、全体として総議席751の過半数を大きく上回る。しかし、中道右派で第1党の「欧州人民党」(EPP)と、中道左派で第2党の「欧州社会・進歩連盟」(S&D)の獲得議席がそれぞれ182 と153にとどまり、合計議席が初めて過半数を下回った。これに対し、フランスの「共和国前進」が参加したリベラル派の新会派「欧州再興」が旧会派のときの69議席から108議席に増加して第3党となり、また、環境保護派の「緑の党・欧州自由連合」が議席を52~75に増やして第4党に位置している。今後、欧州議会は EPP と S&D を中心としつつも、親 EU 四会派が政策ごとに連携し、ときにポピュリスト政党も巻き込みながら、多数派を形成して運営されることになる。

 ポピュリスト政党は大同団結に失敗したが、それでも「アイデンティティと民主主義」会派は他のポピュリスト政党と政策ごとに連合を組むことにより、親 EU 派政党中心の議会運営に挑戦することを目指している。しかし、それを妨げる要因がいくつか存在する。

 第1に EU 予算のうえで純貢献国の西欧諸国と純受益国の東欧諸国の間で財政移転をめぐる対立がある。

 第2に財政規律を重視するドイツは AfD を含めて、イタリアの財政赤字や公的債務に批判的である。

 第3にロシア関係で亀裂の恐れがある。仏「国民連合」、伊「同盟」、オーストリア自由党、ハンガリー与党フィデスなどはロシアに友好的であり、クリミア併合を含むウクライナ情勢をめぐる対ロ経済制裁の継続に反対しているが、ポーランドや北欧諸国はロシアを安全保障上の脅威と見なしている。

 第4に難民問題をめぐって負担の平等化を求めるイタリアと、それを拒否するハンガリーやポーランドなどとの間で不協和音が生じる可能性がある。

 

2019年8月18日 (日)

EU とポピュリズムのせめぎあい ②

続き:

 今年5月23~26日に実施された欧州議会選挙は、28加盟国の4億2600万人を有権者とし、インド(有権者約9億人)に次ぐ世界第二の規模の民主的選挙であった。投票率は先回2014年選挙の際の約43%~51%に上昇した。この選挙において有権者の関心が高い政策の上位には、景気・雇用、移民問題、気候変動・環境などが含まれていた。

 ポピュリスト政党は、有権者の動向を見極めて EU や単一通貨ユーロからの離脱という政策を取り下げ、むしろ自分たちにとって都合の良いように EU を内部から変革することを主張するようになった。それは、EU の利用価値を暗黙のうちに認めることであり、それまで EU にそのものに対する「野党」として反 EU を主張してきた欧州ポピュリズムの変質を意味するものとも言える。

 たとえば、イタリアのポピュリスト政党「同盟」の党首であるサルビーニ内相は、選挙前に「コモンセンス欧州」を唱え、「雇用、家族、安全、環境保護を中心に取り戻さなければならない」と訴えた。これは、EU からの「主権」を奪還して移民を制限し、国家のアイデンティティを守ることを目標とする。しかしそれは、コスモポリタン的な EU の超国家性に歯止めをかけつつも、ある程度の欧州統合を前提としており、EU という枠組みを必要とする。

 しかし、その点は曖昧なままとされ、現状ではポピュリスト政党は批判勢力にとどまっている。

 それにもかかわらず、今回の選挙ではポピュリスト政党が反移民政策を前面に押し出して躍進すると予想されていた。ところがいざ蓋を開けてみると、それらの政党が中心となって欧州議会で結成する3つの会派の獲得議席合計は155~179への増加にとどまった。その中でイタリアの「同盟」やフランスのルペン党首が率いる「国民連合」を中心に、「ドイツのための選択肢」(AfD)などが加わって新たに結成した会派である「アイデンティティと民主主義」が73議席に達し、旧会派のときの36議席から倍増している。

 

 

2019年8月17日 (土)

EU とポピュリスムのせめぎあい ①

庄司克宏(慶應義塾大学教授)さんは「世界 8」に「欧州の行方を占う選挙が5月に実施。いまや「常態化」しポピュリスト政党が構成する勢力地図はどのように変化したのか。今後のシナリオを描き出す。と述べている。 コピー・ペー:

 

 「ヨーロッパ人は今ではEU とポピュリストの両方を気に入っているようだ」

 これはブリュッセルにある欧州政策研究センター(CEPS)で所長を務めるダニエル・グロス博士の発言。EU 市民はどれくらい EU を気に入っているのだろうか。2019年2~3月世論調査(ユーロバロメーター)によれば、EU 加盟を良いことであるとみなしている27加盟国(イギリスは除く)の市民は平均で61%に達し、悪いことであるとみなす10%を大幅に上回っている。

 また、EU 加盟の是非を問う国民投票が明日行われるとすれば、EU 残留に賛成すると回答した市民は平均で68%に達し、EU 離脱支持は14%にとどまる。離脱支持が残留支持を上回る国は1つも無い。これはブレグジットをめぐるイギリスの混迷によるところが大きい。それを反映して、イギリスを除く各国で EU 離脱を主張する政党はほとんど姿を消している。

 また、同じ世論調査で、ポピュリストはどの程度 EU 市民から気に入られているかに関して、「欧州各国で伝統的な政治エリートに反対する政党が台頭しているのは懸念されることである」ことに「全く同意する」という回答が平均で61%なのに対し、「全く同意しない」という回答も28%あった。これは、EU に加えてポピュリストも気に入っている EU 市民がかなり存在することを示している。

 EU 内でポピュリスト政党の存在は今や、「常態化」しているとも言われる。オランダにあるユトレヒト大学のマタイス・ローダイン教授の研究によれば、各国ポピュリスト政党ごとに支持層が顕著に異なり、それらの政党を支持する有権者は必ずしも教育レベルの低い低所得者層や欧州懐疑的傾向を有する者とは限らないことが指摘されている。

 なお、ここで言うポピュリスト政党とは、特に、欧州懐疑主義、ナショナリズム、反既成政党などを共通項とする右派のポピュリスト政党を指すものとする。

 

2019年8月16日 (金)

Clinical 「超高齢社会を支える義歯治療」 ⑤

続き:

 

5 . 全部床義歯における顎間関係について

 

 ある患者のゴシックアーチ描記図とその旧義歯はレトロモラーパッドに届いておらず、ホームリライナーを使用していた。安定しない義歯を無理矢理使っていたため習慣性の顎位が不安定になってしまった義歯の例を挙げて解説。(ここは略)。

 

6 . 下顎義歯の軟質裏装の要点

 

 近年、シリコーン系及びアクリル系軟質裏装材に由るリライン(間接法)が保険収載された。一見、福音のように見えるが、実は結構難しい。以下のポイントに注意していただきたい。

 

1) 軟質裏装時の理想的な印象採得法

 今度の保険収載されたアクリル系軟質裏装材は、ある程度の粘膜面調整は可能であるが、シリコーン系軟質裏装材はバーの刃をはじいてしまって内面調整がほとんど不可能である。またシリコーン系適合試験材も付着するため使用することができない。従って、裏装後の調整はできるだけ軽微で済むように、ダイナミック印象にて内面と辺縁を確定してからリラインすべきである。

 

2) 義歯床と軟質裏装材の接着

 シリコーン系軟質裏装材は常温で硬化するため、つい直接法で使用したくなる。しかし床用レジンとシリコーンの接着は極めて脆弱である。また口臭原因物質であるメチルメルカプタンは重合阻害の要因だ。さらにリラインの破綻は、薄い辺縁部分の接着がはがれることによって開始される。

従って、辺縁のシリコーンとレジンの接着部分は接合の形態に注意し、シリコーンの薄い部分を作らないような、スペーサーを適切に設定できる間接法でのリラインが必須。

 

7. 基本は忠実に

 

 どんな義歯でも軟質裏装材でリラインすればよくなるわけではない。義歯形態の基本を順守し咬合をチェックしたうえで、それでも咀嚼時の疼痛を妨げない貧弱な顎堤に対するオプションとして捉えていただきたいと筆者(水口)は思う。

2019年8月15日 (木)

Clinical 「超高齢社会を支える義歯治療」 ④

続き:

 

5) 顎舌骨筋部

 この部分は、顎舌骨筋の緊張により義歯床縁は開き、内側に凸の外形となる。またこの部は積極的な辺縁封鎖を考える必要はなく、顎舌骨筋の緊張を避ければよい。さらに後顎舌骨筋窩の部分は臼後隆起の下に入り、顎舌骨筋線部と合せていわゆる S カーブの一部となる。従って、顎舌骨筋部~後顎舌骨筋窩の床縁は徐々に薄くし、研磨面形態は舌の側縁部を受け入れるようにわずかに凹面にする。

 丁度、開いた顎舌骨筋部の床縁の上に舌が乗るような形に仕上げることを心がける。また、舌側後縁は薄く仕上げ、舌側縁部への異物感を最小にする。

 この部分の深さは、顎舌骨筋に沿って延長させるとかなり伸びる場合がある。最初にこの長さを決めようとするとなかなか難しい。「下顎の床縁の長さはほぼ下顎骨下縁と平行に走る」ので舌下腺部の辺縁の位置からそのまま後ろに伸ばせばよい。

 

6) 後顎舌骨筋カーテン

 臼後隆起直下のアンダーカット部を後顎舌骨筋窩と言い、その部から舌根部にかけての粘膜を後顎舌骨筋カーテンいう。下顎義歯の後縁であり、舌の前突とともに前上方に動き、この部の義歯床が長いと義歯が持ち上がる。しかしながら、顎堤頂がなくなるほどスロープ状に臼歯部顎堤が吸収している場合には、この部分を適切な範囲で延長することによって安定が向上することがあるため、単に短くすればよいという認識ではなく、慎重に義歯調整してほしい。

 痩せた男性の高齢患者で、開口した時に咽頭の奥まで見えてしまうような人がいるが、これは咽頭周囲の筋力が減少し舌骨が下がり、まさにこの部のサルコペニアともいえるような状況である。通常この下顎義歯の後縁部は、臼後隆起、舌、頬粘膜で封鎖されているのだが、このような場合は封鎖することができない。

 このとき、後顎舌骨筋窩の部分が粘膜から離れていると吸着が得られない。アンダーカットも大きい部位でリリーフを大きくしがちだが、注意してほしい。

2019年8月14日 (水)

Clinical 「超高齢社会を支える義歯治療」 ③

続き:

 

4) 舌下腺部

 下顎義歯吸着の最大の源であり、ここが辺縁封鎖できていないと義歯は浮き上がる。機能時の口腔底の動きは極めて大きいため、「ここに、この形の床縁をもってくれば必ず吸着する」という考え方ではなく、「辺縁封鎖ができる確率を高める」というスタンスで臨むべきである。この部の辺縁封鎖が下顎全部床義歯の維持力の主たるものであり、この部の封鎖がされないと、顎堤が良好なら別だが、開口時に義歯は容易に持ち上がってしまう。

 開口時に持ち上がった状態で閉口から咬合に移行した時、義歯は顎堤粘膜に対して摩擦を伴って押し付けられることになるため、持ち上がりの程度が大きいと必然的に顎堤粘膜にストレスを与え、疼痛、潰瘍の原因となる。したがってこの部の辺縁封鎖を確保したいが、この部の挙動が大きく、一通りの辺縁形態や辺縁の位置ではすべての状態に対して完全に辺縁封鎖が成立するように対応するのは不可能。

 よって辺縁封鎖されている時間ができるだけ長くなるように、あるいは封鎖されている確率が高くなるように、この部の辺縁の厚みや深さを設定する。実際にはコンパウンド等で少し押して採ることになるが、必ず口腔底の反発を指で感じておくべきだ。

 作業模型製作時にも気を付けていただきたい。

 辺縁の外側の立ち上がりを義歯に反映させるために辺縁のトリミングを深く残す。ラボ(技工士)とのコミュニケーションが重要である。

 舌小帯部には気を付けていただきたい。舌小帯部は顎堤が吸収している場合はオトガイ舌筋の付着部であり硬い。その周囲の口腔底は疎な組織なので軟らかいのだが、そのギャップを床縁に反映させるのは厄介である。避けすぎると吸着が弱くなり、攻めすぎると潰瘍を生じさせることになる。ギャップが大きい場合は、調整に数回かかる場合もある。

 また、口腔庭の上下が大きい場合、この部の下顎骨のアンダーカットのため、舌安静時に辺縁封鎖ができないことがある。

2019年8月13日 (火)

Clinical 「超高齢社会を支える義歯治療」 ②

続き:

 

4. 下顎の印象について

 

1) レトロモラーパッド(臼後隆起)部

 レトロモラーパッドを印象域に含めるということは維持、支持、安定を確保する上で絶対に必要なこと。特に顎堤の吸収が著しい場合には必須だ。顎堤吸収が進行すると義歯は前後的にスイングするようになる。この動きを止めるためにはレトロモラーパッド部をしっかり覆うことが必要。レトロモラーパッドの手前までしか義歯床のないケースでは、パッドの手前が著しく吸収してしまっている場合が多い。

 下顎骨は、左右関節頭を結ぶ U 字形の基幹骨に咬筋・内側翼突筋が付着して発生する下顎角部、側頭筋が付着する筋突起、歯が萌出することによって発生する歯槽部からなる。レトロモラーパッドはこの基幹骨に属するため、歯を失っても吸収されにくい。したがって、この部まで義歯の床縁を伸ばすことは支持能力を高めるうえでも合理的だ。

 精密印象採得時には、この部をトレーが半分以上覆っているかどうかを確認する。パッドが分かりにくい症例もあるが、頬棚部の粘膜翻転部や顎舌骨筋線の走行を確認して判断していただきたい。レトロモラーパッドの頬側に小帯になっている場合があるが、その前方に続く咬筋切痕部とともに注意していただきたい。

 

2) バッカルシェルフ (頬棚)

 頬棚は頬筋の下方筋束が付着する所で、頬筋の付着が顎堤頂付近にまで及んでいる場合が多い。この部の頬筋の走行は床縁の経過に平行で、床縁にはさほど大きな力を及ぼさないため、その付着部位を超えて延長できる。従って、咬合力を支える部分であると説明されることが多いが、頬棚の下には薄い筋束があることを意識しなければならない。しばしばこの付着部位の筋束が厚い場合や付着の様相が異なっている場合がある。

 咬合圧を支えてくれる重要な部分であり、広く粘膜に密着して採りたいところではあるが、開口時あるいは口腔機能時に頬粘膜から受ける力はその様相によって様々であるので、かならずこの観点を持って確認していただきたい。ただ、とにかく延長すればよいというものではなく、時に頬筋付近の破格があり、開口時に小帯様に現れることがあるので注意を要する。頬棚と頬筋の付着を超えて延長するときは、頬粘膜の立ち上がりに沿って延長。決して頬粘膜を踏みしだくようにして延長してはならない。頬粘膜の自然な力で筋圧形成できるようにコンパウンドを柔らかくしてほしい。

 

3) オトガイ部

 オトガイ筋の収縮程度によって辺縁の位置や形態が決定され、強い収縮を印記した場合、辺縁は短くなる。また、オトガイ筋や頬筋は、歯列の頬側にある食塊を咬合面に載せるため、咀嚼運動の開口時に収縮することが多い。また、下顎前歯部の傾きによっては、オトガイ筋だけでなく、下唇自体がその緊張で義歯自体を持ち上げてしまう。この場合、辺縁から下顎前歯歯頸部にかけての研磨面形態を凹面にし、口輪筋の筋束の一部をひっかけるような形で義歯の持ち上がりを防ぐことができる。

 この部の床縁の厚みや研磨面形態は、上顎前歯の位置や水平被蓋、さらには下唇の長さによって変わってくるので、下顎前歯の位置や傾きなど、ケースバイケースの微妙な対応が必要と考えられる。排列試適時にもよく確認してほしい。

2019年8月12日 (月)

Clinical 「超高齢社会を支える義歯治療」 ①

水口俊介(東京医科歯科大学大学院総合研究科高齢者歯科学分野教授、同大学歯学部付属病院副病院長)さんの研究文を記載する。 コピー・ペー:

 

                       要 約

 高齢者の残存歯は増加している。8020達成者もついに50%を超えた。しかしながら、寿命の延長により大型義歯の需要はさほど減少せず、その上難症例の割合は増えている。大型義歯の究極は全部床義歯であるが、全部床義歯の形態や印象は周囲軟組織の動きに影響される。また、正確に顎間関係を記録することが必要だが、高齢者では困難な作業である。この研究文では全部床義歯の臨床を左右する重要なステップである印象採得と顎間関係記録について解説。

 さらに今回新規に保険導入された軟質裏装材について言及する。これらを正しく理解・習得し、いかに確実に積み重ねていくかが上達の秘訣である。

 

1. 義歯治療の目的

 

 残存歯数や口腔機能と全身の健康状態とは密接に関係している。例として上げているのは、イタリアのある地域での義歯を入れることと平均余命との関連についての調査結果である。調査では、18歯以上の残存歯がある人または18本義歯を入れている人と、義歯を入れていない人の間には生存曲線に有意差があり、歯が少なくて義歯をしていない人のほうが短命であったことが示された。

 また宮古島での調査によると、80歳以上の高齢者において機能歯数(義歯を入れている場合は歯あるとする)10歯以上とそれ以下では、男女とも生存曲線に有意差が見られた。このように義歯を装着し口腔機能を回復することが全身の健康に関連し、その影響は高齢になるほど大きいことが明白になっている。

 

2. 義歯治療を成功に導くポイント

 

 2016年度歯科疾患実態調査に於いて8020達成者が51.2%であったことからも、高齢者の残存歯残存歯数は増加。無歯顎者は減少しているが、当該年代の人口も多いため全部床義歯を代表とする大型義歯の需要は依然として多い。さらに、日常生活動作(ADL)の低下した患者が多いため、在宅診療での即応力も要求されるであろう。

 全部床義歯は人工歯と義歯床のみで構成されているし、これが上下無歯顎堤間の広い空間に存在し、義歯周囲軟組織や顎堤粘膜、人工歯咬合面を介して伝達される様々な力の中でバランスをとりながら機能しているため、形の成否は機能の成否となる。―必ず押さえるべきポイント、陥りやすい間違いについて解説する。

 

3. 上顎の印象採得について

 

1) 上顎義歯の後縁

 上顎義歯の後縁決定に用いる解剖学的ランドマークは、ハミュラーノッチ、翼突下顎ヒダ、口蓋小窩、アーライン(振動線)である。教科書的で、もう誰もが知っている事項であるが、なぜかこれが守られていない義歯が多い。後縁まできっちり採ると、かなり大きい義歯に感じてしまうのであろうが、正確な印象は十分な維持安定をもたらし異物感は少ない。

 長年、嘔吐反射が強く無口蓋義歯でもだめだった患者が通常の有口蓋の義歯でも、きっちりと印象を採ったことで口腔内の動きが小さくなり、装着することが可能になる場合も少なくない。

 翼突下顎ヒダは上顎辺縁形成の出発点だ。従って、上顎の個人トレーはここを避け、コンパウンドで印記する。ここが翼突下顎ヒダだと認識したということと、ここから辺縁形成をするのだという意思を込めて個人トレーはクランク状にする。

 予備印象に翼突下顎ヒダが明確に印記されていない場合には必ず口腔内でヒダと個人トレーの位置関係を確認する。時にはっきりしないケースもあるが、後縁決定には重要な要素なので必ず確認してほしい。アーラインに沿って後縁を走らせるのだが、時に長すぎる義歯がある。アー発音時に軟口蓋が持ち上がってしまい封鎖が破れてしまうのである。

 また確実な後縁封鎖のためには、コンパウンドによる筋形成時にトレー内面に流れのよいコンパウンドを一層盛り、口蓋粘膜を押した状態で印象が採れるようにする。この時、翼突下顎ヒダもごくわずかに押すようにする。個人トレーの後縁が不足であれば、常温重合レジンで延長したほうがよい。顎堤吸収が顕著で上顎結節のはっきりしない場合は特に留意すべきである。

 

2) 上顎の頬側辺縁および前歯部辺縁について

 上顎顎堤は抜歯とともに外側から吸収し、顎堤頂は口蓋側に移動。上顎顎堤が著しく吸収したケースでは、床辺縁の厚みはリップサポートや人工排列に大きく影響することになる。吸収した顎堤を補うように床縁を厚くしないと、臼歯部においては臼歯排列位置が印象域の外側に飛び出すことになり、不必要な交叉咬合排列をしてしまうことにもなりかねないし、頬側の研磨面形態が義歯の安定に寄与できないことになる。特に犬歯部に於いて床の厚みが十分でないと、犬歯の排列する位置が口蓋側に寄りがちとなる。

 すると前歯部アーチが小さくなり、それに続く臼歯部アーチの幅径も狭くなり舌房が減少する。鼻下部の印象辺縁がが薄い場合、犬歯部と同様に前歯の位置が口蓋側寄りとなり、リップサポートが不足となる。

 また上唇小帯付近にはオトガイ筋と対をなして、頬筋・口輪筋複合体を上顎骨に固定する口輪筋上顎起始及び鼻中隔下制筋があり、これは口輪筋と協同支配となっているため口輪筋の緊張と同時に緊張する。したがって開口しているときに唇をすぼめるような運動、たとえば熱いお茶をすするような時、上顎義歯が下方に脱離する原因となることがある。

 上顎の印象はその後に続く咬合採得のステップに大きく影響を与える。どこに人工歯を排列するか、を予見して印象採得しなければならない。

 

より以前の記事一覧