日記・コラム・つぶやき

2021年5月 6日 (木)

人間と科学 第323回 植物と薬と人間(1) ③

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 斉藤(私)も前任の教授の後を継いで、薬学部では生薬学や薬用植物学の講義を担当したが、決して植物の名前や育て方に詳しいわけではない。市民講座などで講演した後や、古い同級生などに会うと、自分の好みの植物の育て方やその名前を聞きに来る方が多いが、多くの場合は残念ながら満足のいくお答えをすることができない。このような植物を見る目や植物を育てる能力などの、いわゆる「植物心」は先天的な才能に依るところが大きいように思う。専門教育を受けていなくても、植物を見分けて名前を覚え、次に見た時に正確に判別できる先天的な能力を持った天才的な人たちが確かにいる。日本の植物の分類に大きく貢献した牧野富太郎氏などは、このような天才の一人だったと思われる。

 しかし、現在では斉藤(私)のように植物を見分けて名前を覚えることに凡庸な人間にも便利なスマホのアプリが利用可能になっている。斉藤(私)もそれらの植物判別アプリを使っている。その精度は 98%とも言われているが、確かに一部分だけの写真を撮っても直ちに植物名やその植物に関する様々な情報を教えてくれる。実に便利であるが、昔のように学生版牧野植物図鑑を携えて、いちいち特徴を捉えて名前を調べた楽しみはなくなってしまう。

 さて、話は脱線してきたが、教授室のにおいの話にもどろう。斉藤(私)2020年3月に薬学部教授を定年退職したが、かって斉藤(私)の訪れた若い学生さん達が巣立った後に、何年かして斉藤(私)の教授室の何を思い出すだろうか?爽やかな芳香か、はたまた、息苦しい雰囲気に包まれた思い出か?こちらとしては長い学期末の試験成績をもらう時のできの悪い学生のような気分である。

2021年5月 5日 (水)

人間と科学 第323回 植物と薬と人間(1) ②

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 精油を含む生薬は多くあるが、その中でも歯医者さんになじみの深い生薬が丁子(あるいは丁香)だ。英語名はクローブ(Clove)で、東南アジア原産のフトモモ科植物のチョウジ (Syzygium aromaticum) にも示されているように、その刺激的で特徴的な香りによって、スパイスとしても重用されカレー料理の風味付けや肉料理の臭み消しに用いられる。

 この特徴的な香りの元である丁子に含まれる精油は、その重量の 15~20%にも達する。この精油中 80%を構成する主化学成分がオイゲノール(ユージノール)である。この主成分オイゲノールには、鎮痛作用、抗炎症作用、局所麻酔作用などがあり、酸化亜鉛ユージノールとしての歯の仮封、歯髄の鎮痛消炎や補綴の目的で歯科領域において汎用されている。したがって、誰でもこの丁子の匂いを嗅ぐと「あっ、歯医者さんの匂い」と言って歯科治療を思い出すのである。

 このオイゲノールは、殺菌薬や消毒薬としても用いられているが、基本的に強い油性の揮発性有機化合物である。薬学部教育のなかでは生薬鑑定の項目があり、重要な生薬を透明なプラスチック容器などに入れて教育に用いているが、丁子を入れた容器は、この揮発性の油成分であるオイゲノールの作用で白く曇ってしまう。それくらい、丁子の中のオイゲノール含有量が多く、揮発性が高くプラスチックを曇らせてしまう有機化合物である。

 

2021年5月 4日 (火)

人間と科学 第323回 植物と薬と人間(1) ①

斉藤和季(理化学研究所環境資源化学研究センター長)さんの研究小論を載せる。 コピーペー:

 連載「植物と薬と人間」は、まず私(斉藤)の自己紹介から始める。私は長く大学の薬学部で生薬学や植物成分のゲノム機能科学、バイオテクノロジーなどを研究教育してきた。今は理化学研究所で、SDGs(持続可能な開発目標)の実現を目指した研究センターの管理運営と植物研究に携わっている。ここでは、植物と薬と人間との関わりについて、つれづれに思うところを書くつもりである。どうぞ、気楽に読んでいただきたい。

 匂いは人間の感覚の原始的、本能的な部分に関わっているという話を聞いたことがある。確かに、人生の様々な場面の古い思い出が、匂いとともに鮮やかに呼び起こされることが多い。私(斉藤)も研究者キャリアにおいて教えを請うた何人かの先生方の教授室の匂いや、そこでの会話の場面を思い出すことがある。最初の学部学生時代に指導を受けた愛煙家の先生の教室は、タバコのヤニの匂いで満ちていて、先生の顔はいつも紫煙の向こうにあった。大学院時代の恩師で微生物や植物の化学成分を専門とする先生の教授室は、床磨きワックスのクレゾールの匂いがしていた。この先生は、植物遺伝子組み換えの開拓者だったので、元素周期表を模した様々な作物のパネルも教授室の壁に飾られていた。

 斉藤(私)の前任の薬学部教授は薬用植物を講じていたので、教授室には国内外からの生薬や薬用植物の標本が沢山置いてあった。そこは、いわゆる「漢方薬のニオイ」満ちていた。この漢方薬の匂いは、様々な生薬(主に植物などの天然物に由来する素材を精製せずに用いる薬)から発せられる揮発性化学成分が混じりあったものに由来する。これらは、精油(エッセンシャルオイル)とも呼ばれ、香りのよい植物(いわゆるハーブ類)や生薬から水蒸気蒸留によって得られる揮発性油成分の混合物である。

2021年5月 3日 (月)

中国デジタル革命と監視社会の行方 ⑦

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■ 理想社会かデジタル・ディストピアか

 中国のデジタル戦略は2015年、李克強首相が提唱した「インターネットプラス(互聯網+)」で大きく加速した。大衆による起業と万民によるイノベーションをめざす「大衆創業・万衆創新」と相まって、ネット通販やSNS、電子決済、コンテンツ配信はもちろんのこと、シェア・サイクルに代表される」シェアリング・エコノミー」や個人を格付けする「信用スコア」などのプラットフォームが立ち上がり、社会に変容をもたらした。

 一方、中国共産党は習近総書記が誕生した2012年の第18回党大会以来、情報化を通じて国家統治能力を強化する政策に邁進している。2019年10月の中央委員会全体会議では、「ネットの健全な運用、ビッグデータ、人工知能などの技術を使った行政管理制度の推進、デジタル秩序の強化、法に基づく個人情報保護」などが決議された。巨大プラットフォームが保有する情報に逮捕経歴、納税暦等の行政情報が紐づくことで、個人が丸裸となる社会が出現しつつある。

 中国は「デジタル・シルクロード」の名のもと、こうしたシステムの海外展開を狙っている。2019年12月、米シンクタンク「カーネギー国際平和財団」は、中国のハイテク企業から 63ヵ国に監視システムが輸出されたと指摘した。人権抑圧が懸念されるミャンマー、イラン、ベネズエラなどだけでなく、日本、フランス、ドイツなども含まれる。国際 NGO 「フリーダムハウス」や「オープンテクノロジー・ファンド」も同様のレポートを発表した。

 監視社会の広がりは中国だけでなく、米国でもAIベンチャー「クリアビューAI」がフェイスブック、ツイッター、インスタグラムなどの SNS から 30億枚の画像を自動取集し、警察などに提供していたことが明らかとなり、大きな問題となった。こうした動きに対抗して、サンフランシスコでは公共機関による顔認証技術の利用を禁止。ほか、カリフォルニア州は 2019年9月、警察による顔認証技術の利用禁止法案を可決。またアマゾン、 IBM に続き、マイクロソフトが 2020年6月、警察への顔認証技術の提供を取りやめた。

 デジタル技術が極端な監視社会を生む危険をはらんでいることは明らかだ。「デジタル・ディストピ論」の論拠ともなっている。一方で人々がデジタル技術い求めているのは「利便性」とともに監視システムを利用した「より安全な社会の構築」でもあることが事態を複雑にしているのだ。

 ELSI という考え方がある。新技術が社会実装される時には、倫理的(Ethical)、法的(Legal)、社会的(Social) な課題(Issues) が解決されなければならないという考え方だ。その意味で現代中国のデジタル革命は、倫理、法律、人々のリテラシーが追い付かないまま、技術の社会実装が進んでいる状況と捉えることができる。科学技術は生み出すのもそれを使うのも人間。問われているのは、どのようなデジタル社会を構築するかという「人間の意志」なのである。

 

2021年5月 2日 (日)

中国デジタル革命と監視社会の行方 ⑥

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■  究極の監視社会とデジタル技術

 新疆ウィグル自治区は習近平主席が提唱する現代版シルクロード「一帯一路」の重要な拠点だ。ウィグル族への苛烈な監視が始まったのは 2015年頃からと言われる。米政府系のラジオ・フリー・アジアは最大100万人が「再教育キャンプ」という名の強制収容所に送られたと報じた。また国際人権団体「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」は、中国が AI やビッグデータなどの最新技術を使って、ほぼすべてのウィグル族を監視していると告発した。

 これに対して中国政府は一貫して「施設は就職訓練所である」と主張、2021/01/11、には「再教育」や「職業訓練」が2019年10月に終了したと発表した。しかし2021/01/19、バイデン大統領就任の前日にポンペオ国務長官は、中国がウィグル族などイスラム教徒の少数民族に対して「ジェノサイド(民族大量虐殺)」を犯したと認定、新任のブリンケン国務長官も 1月27日の就任後初会見で「ウィグル族に対してジェノサイドが行なわれたとの認証は変わっていない」と述べた。

 日本に住むウィグル人は「家族とは連絡を取りません」と語る。ウィグルでは国際電話をかけること自体が監視の対象となるという。ラジオ・フリー・アジアによると、スマホには監視アプリ「浄網衛生」はスマホ内のインストールが義務付けられている。「浄網衛生」はスマホ内の情報をスキャンして、映像、写真、通信履歴、閲覧履歴、SNS利用暦などをチェックし、問題があれば当局に通報する。

 顔認証カメラ付き監視カメラがフル稼働するほか、スマホの位置情報や測位衛星「北斗」を利用して、住民が一定距離以上、離れると当局に通報されるという。

 公安当局が熱心に収集しているのは住民の生体情報である。ヒューマン・ライツ・ウォッチによると、中国政府は新疆ウィグル自治区だけでなく、ほぼ全国で DNA を含む生体情報を収集していると避難する。

 生体情報で個人を特定する AI 技術は格段の進歩を遂げた。古くから使われている指紋の他、顔認証、目の虹彩、声紋、掌紋、静脈などの認証技術がすでに実用化した。人の歩き方で認証する技術も開発が進む。「歩容認証」は歩行の周期や歩幅、骨の動き、荷物を持った時の癖などを分析して個人を特定する技術で、中国科学院自動化研究所傘下の AI 企業「銀河水滴科技」は 2019 年 7月、世界初の歩容認識システム「水滴慧眼」を開発したと発表。

 また DNA 情報は血縁関係の特定や、目、肌の色、髪の毛、顔立ちを予測するのに使われる。「DNA フェノタイプ」と呼ばれる技術で、2019年2月、ニューヨーク・タイムズはこの技術が新疆ウィグル自治区で使われていると報じた。

 個人に関するあらゆる情報を収集する中国政府のビッグデータ・プロジェクトは、「統合共同作戦プラットフォーム」と呼ばれている。新疆ウィグル自治区は最先端技術を使った監視技術の実験場となっている。

2021年5月 1日 (土)

中国デジタル革命と監視社会の行方 ⑤

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■  新疆ウィグル自治区で起きていること

 過って北京市北西部に「新疆村」があったことを知る人はもう少ない。ウィグル・レストランや民族色豊かな絨毯や独特の楽器を売る店が軒を連ね、路上は「羊肉串」を焼く肉と香辛料の香りに包まれていた。1997/03/10、北京駐在記者だった倉澤は、「新疆村」が取り壊されるとの情報を得て取材に向かった。現場に急行すると「村」はすでに跡形もなかった。

 「新疆村」取り壊しの理由は「羊肉串」を焼く煙の「環境問題」とされた。しかし真の理由は北京からウィグル人を追い出すためだった。直前の1997/02/25、ウィグル西部の町「イリ(伊寧)」で大規模な暴動が発生、人民解放軍の発砲により数百人が死亡、ウィグル人数千人が逮捕された。―「イリ事件」、あるいは「グルジャ事件」と呼ばれている。

 2003年12月、中国政府は「東トルキスtン・イスラム運動」、「東トルキスタン解放組織」、「世界ウィグル青年代表大会」、「東トルキスタン情報センター」の 4組織を「テロ組織」に認定。2001年の米国同時多発テロ事件以降、中国政府はイスラム教徒のウィグル族とアルカイーダなどイスラム過激派との連携に神経を尖らせている。

 しかしその後も暴動は続いた。2009年7月には首都ウルムチ南駅で爆弾事件が発生。一般市民にも多数の死傷者を出した。当時習近平主席がウルムチを訪問していたことから中国政府は大きな衝撃を受け、「懐柔策」から「弾圧」へと大きく政策を転換するきっかけとなった。事件翌日、習近平主席は「新疆の分裂と反分裂闘争の長期性、複雑性、先鋭性を深く認識し、対暴力テロ闘争を一刻も緩めず、果断な措置をとり、暴力テロ分子の気炎を断固として打ち砕かなければならない」との重要指示を発出した。

 シルクロードの要衝、新疆ウィグル自治区は異国情緒豊かな実に美しく魅力的な地域だ。首府ウルムチにはバザールが点在し、観光地として人気のあるトルファンには火焔山、ベゼクリク千仏洞、アスターナ古墳群、蒲萄溝などの見所がある。陽が落ちるとあちこちで夜市が開かれ、饅頭や羊肉を焼く香辛料の香りに包まれる。エイティガール・モスクや緑のタイルが美しいアパク・ホッジャの墓があるカシュガルは宝石のような街だ。酷暑の夏、砂漠からの熱風に煽られながら、旧市街の露店で長い時間をかけて飲んだ「八宝茶」の味は忘れられない。

 日本に住むウィグル人は「もう古き良きカシュガルはありません」と語る。耐震性の不備を理由に、旧市街はすべて取り壊されれたのだという。

 

2021年4月30日 (金)

中国デジタル革命と監視社会の行方 ④

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■ 百花繚乱の中国イノベーション事情

 「中国のシリコンバレー」とも呼ばれる深圳市では、すでに公共交通機関はすべて電気自動車(EV)だ。自家用車の EV 転換も進んでおり、近い将来、深圳市からガソリンエンジン自動車が姿を消す日も遠くないだろう。

 とくに中国版軽自動車の「K-Car」が今、農村部を中心に市場を拡大している。中堅自動車メーカー「上汽通用五菱汽車」が2020年7月に発売した「宏光MINI EV」は1台約45万円と、自宅周辺で使う軽自動車としてはて手ごろ。EVの普及を加速すると期待されている。

 一方今年1月、「NIO(上海蔚来汽車)」が発表した「EVT7」は世界の自動車産業に衝撃を与えた。高性能センシングユニット、第二世代コックピット、自動車運転機能は勿論のこと、世界で初めて全固体リチュウムイオン電池を搭載した。固体電池は液漏れせず安全性が高いこと、エネルギー密度が高く航続距離をのばせること、高速充電が可能なことから、世界で熾烈な研究開発が繰り広げられてきた。「ET7」の航続距離は 1000 km を超える。

 自動運転分野では検索エンジンの「百度」が米国カリフォルニア州の「2019自動運転解除レポート」でグーグルの「ウェイモ」を抑えてトップとなった。すでに北京市、湖南省長沙市、河北省ソウ州市で自動運転タクシーやバスの試験運行サービスを開始した。ガソリンエンジンからの脱却は、世界の産業構造を大きく変えるだろう。

 モバイル通信網 5G の構築でも中国は一歩先を行く。基地局の設置は 2020年11月現在すでに71万8000局に達した。5Gの特徴は「超高速大容量」「超低遅延」「超多数接続」である。中国政府は優先的に5Gを活用する分野として「スマート医療」「スマート教育」「超高精細放送」「スマート港湾」「インターネット+製造」「スマートグリッド」「自動運転」の7分野をあげており、産業や医療分野での実用化が進む。5G通信網の整備は「第四次産業革命」の重要インフラとなる。

 医療分野でのイノベーションもすさまじい。AIを使ったCT画像診断は医師による肺炎の診断に不可欠となった。ベテラン医師が30分以上必要としていたCT画像分析を、AIは僅か20秒程度に短縮した。アリババ傘下の「達磨院(DAMOアカデミー)」、AIベンチャーの「インファービジョン(北京推想科技)」、「センスタイム(商湯科技)」、「メグビー(廣視科技)」、「YITU(依図)」などが参入、すでに日本の医療ベンチャーとの連携も始まっている。

 医療ロボットも多種多様な機種が開発された。1分間に200人の体温測定が可能なAI検温ロボット、PCR検査ロボット、消毒ロボット、配膳ロボット、患者搬送ロボットなど続々と登場した。

 さらに脳にAIチップを埋め込んで睡眠や記憶力を制御するBMI(ブレイン・マシン・インターフェイス)技術や、クローン技術でペットや希少動物を再生させるベンチャーなどが巨額の資金を集めてビジネスを開始した。中国のイノベーションは果たしてどこまで進むのか、そのバイタリティに驚かされるとともに、人知を超えた領域に踏み込む大胆さに、倉澤(筆者)は不安を抑えることができない。

2021年4月29日 (木)

中国デジタル革命と監視社会の行方 ③

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■ デジタル技術で変容する中国社会

 中国社会に変化をもたらすもう一つの技術が顔認証。顔認証は生態認証技術の一つで、人間の顔の画像から特徴を抽出して人物を特定する。画質の向上と、AIによる「深層学習」の応用で精度が上がり、米国立標準技術研究所のベンチマークテストでトップとなった日本のNECのエラー率はわずか0.5、1000人に5人。2位は中国上海の「「YITUテクノロジー(依図網絡科技)」、3位はマイクロソフトだった。

 顔認証技術は「双子の判別」が難しいこと、人種によってエラー率が異なること、経年変化に弱いこと、それにマスク着用やなりすましの判別が難しいことなどの課題がある。他の生体認証と組み合わせる「マルチモーダル認証技術」の開発が進む。

 中国政府はいま、14億の全国民を 1秒で特定できる監視システムの構築を進めている。都市部を中心に配備される「天網(スカイネット)工程」と農村部で住民が共同で運用する「雪亮工程」である。とくに「天網」は約 6億台の監視カメラとスーパーコンピュータを駆使し、短時間に人物を特定するシステムだ。

 2017年12月、英国BBCの記者が貴州省公安当局と共同で性能実験を行なったところ、雑踏に紛れた記者を探し出すのにかかった時間はわずか7分だった。「天網」の名は「天網恢恢疎にして漏らさず」に由来し、犯罪を見逃さないという中国公安当局の強い意思を示している。

 監視カメラの存在は中国の人々の行動規範を大きく変えた。中国で人気の香港出身の歌手、張学友の中国ツアーでは、会場のゲートに監視カメラが設置され、逃亡中の多数の指名手配犯が逮捕され話題となった。監視カメラによって「社会が安全になった」と感じる人々の比率は高い。

 日常生活にも変化をもたらした。人々は横断歩道で信号を守るようになり、ごみのポイ捨てが大幅に減った。自動車の運転は穏やかになり、高速道路を猛スピードで跋扈していたタクシーは、速度制限を守るようになった。

 英国のIT関連調査会社「コンパリテック」が世界 50 都市の監視カメラの台数を人口 1000 人当たりに換算して比較する調査を行なったところ、トップ 10 のうち 9 都市が中国だった。1位は中国山西省の首府太原で約 120 台、 2位は江蘇省の無錫市で約 92 台、3位が英国ロンドンで約 68 台、東京は約 1 台で 70 位だ。

 また矢野経済研究所の「監視カメラ世界市場に関する調査2020」によると、世界の年間出荷台数約 6500 万台のうち、中国市場向けが約 6 割を占める。

 デジタル監視網構築に対する中国公安当局の強い強い決意なのだ。

 ――――――それがうかがえるのだ。

2021年4月28日 (水)

中国デジタル革命と監視社会の行方 ②

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■ コロナで加速する中国のデジタル革命

 驚異的なスピードで進化を遂げる中国のデジタル・テクノロジーは、人々の行動にも変化をもたらしており、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)がこれに拍車をかけた。

 中国でスマホを使った「電子決済」が生活に欠かせないインフラとなっていることは、すでに多方面で論じられているが、それ以上に欠かせないのが「健康コード」であることはあまり知られていない。人口 14億人を抱える中国が曲がりなりにもCOVID-19を抑え込むことができた最大の理由は、強権的な都市封鎖と、それを支えるデジタル技術だ。

 2020/01/23、政府が武漢の都市封鎖に踏み切ると、中国のIT企業は「非接触」「非対面」「自動化・自律化」「遠隔操作」などをキーワードに、AI、5G、ロボット、ドローンなどを駆使した製品やサービスを一斉に投入した。なかでも「健康コード」は単なる感染者追跡アプリを超えて、社会の健康情報インフラとなった。

 アリババ・グループが感染者の接触確認機能を搭載したスマホアプリ「健康コード」の着想を得たのは2020年2月初めと言われる。大量のエンジニアを動員して昼夜分かたず開発を進め、2月4日にはβ版、同11日には杭州市で「健康碼」をリリースすると、その日のうちにダウンロード数は1000万を超えた。これは杭州市のほぼ全人口にあたる。2月15日には全国展開が始まり、上海では「随申碼」、北京では「健康宝」と呼ばれている。

 ユーザーは発熱、咳などの健康状態と、14日以内に高リスク地域に立ち入ったかどうかをアプリに登録、行政が保有する健康情報と照合されて「赤」「青」「緑」のQRコードが表示される。「赤」は 2週間の隔離、「黄」は 1週間、それを過ぎると「緑」となり、外出や通行の自由が保障される。「赤」となるのは感染確認者、PCR検査陽性者、濃厚接触者、高リスク地域入境者等だ。

 スマホの位置情報に加え、身分証明書アプリ「CTID(Cyber Technology ID)」、公的機関が持つ出入国管理情報、公衆衛生情報などと連動しており、感染のおそれがある場合には通知が届くシステムだ。

 さらにPCR検査履歴やワクチン接種情報が記録され、外出、出社、スーパーやデパートを含む建物への立ち入りや航空機、鉄道、バスなど交通機関の利用に不可欠な「通行許可証」兼「健康証明書」となっている。「健康コード」は電子決済と並んで最も重要な社会インフラとなったのである。

 一方で「健康コード」の機能拡張にプライバシー侵害や差別助長の懸念も出ている。杭州市は健康情報に喫煙、飲酒、運動、睡眠などの情報を加えて「健康スコア」として数値化する構想と言われ、ネットで批判が集まっている。

 

2021年4月27日 (火)

中国デジタル革命と監視社会の行方 ①

倉澤治雄(科学ジャーナリスト)さんの小論を載せる 「世界 4」より コピーペー:

■ 「コピー大国」から「科学技術強国」へ

 近未来の人間社会に最も影響を与える技術はおそらく人工知能(AI)だろう。農業、工業、商業、金融、医療、軍事利用まで、あらゆる分野で社会実装が始まっている。AI分野での技術力評価を行なう米国の科学技術系シンクタンク「情報技術イノベーション財団(ITIF)」の最新レポートは、全体的に米国がリードしてはいるものの、「中国が差を詰めてきた」と危機感を露わにした。

 「誰が AI レースの勝者なのか」と題するこのレポートでは、「人材」「研究」「開発」「ハードウェア」「実装」「データ」の 6項目で AI 分野の米 140中比較を行っている。その結果、総合点では米国が 44.2 ポイントと中国の 32.3 ポイントを抑えてリードを維持したものの、「実装」と「データ」の2項目では中国がトップに立った。ヨーロッパは 23.5 ポイ ント、日本は評価の対象にさえ入っていない。科学技術振興機構研究開発戦略センターの福島俊一フェローは「AI関連論文の 8 割は米国および中国発で、日本は周回遅れです」と語る。

 米中対立の核心は「先端的基盤技術(Emerging & Foundational Technology)」をめぐる覇権争いだ。科学技術関連指標は中国の科学技術力が米国に肉薄していることを示している。2018年の研究開発費用(OECD購買力平価換算)は、米国の 58.2 兆円に対して中国が  55.4 兆円で、中国が米国を上回るのは確実だ。ついでに、日本は、17.7 兆円である。政府予算ベースではすでに2010年、中国が米国を抜いた。研究者数でも米国の約140万人に対し、中国は 200万人に迫る。

 研究成果の指標の一つ、学術論文数では2018年、中国が52.8万件で米国の42.2万件を抜いたほか、論文の質を示す「被引用度 1%の重要論文」でも、米国に次いで 2位につけた。さらに産業技術の指標のひとつ国際特許出願数では、2019年、中国が59120件と米国の57600件を抜いてトップに立った。

 科学技術分野での中国の加速度的発展は、2000年前後を起点としている。この20余年、米国が「テロとの戦い」に明け暮れる中、中国は「コピー大国」を脱し、科学史上例を見ないスピードで「科学技術強国」への変貌を続けているのである。

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